Multilingual
戦争遺跡ロタコは、アジア太平洋戦争末期に御勅使川扇状地上に構築された日本陸軍の秘匿飛行場である。ロタコの遺構は3キロメートル四方、約800ヘクタールの範囲に点在する。建設工事には釜無川西岸域の住民が1日あたり3000人余り動員されたほ...
土屋惣蔵は武田家の重臣金丸氏の4代目金丸筑前守虎義の5男に生まれる。15歳の時、駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋惣蔵昌恒と名を改めた。元亀3年(1572年)、武田が徳川と戦った、三方ヶ原の戦いで戦功をあげた惣蔵は、武田信玄亡き後...
上高砂地区、豊光院本堂裏手の墓地に国学者、五百住巨川の墓がある。 五百住巨川は、文政12年(1829年)に江戸藩邸で五百住元卓の次男として生まれた。幼名を栄三郎または丑松といい成長した後巨川と号した。昌平坂学問所で学び、著名な国学者で...
野牛島集落の中心に、御所五郎丸の墓がある。安山岩の墓石に「鎌倉御所五郎丸の墓」と陰刻されている。墓所の前には観音堂が建っており、御所五郎丸の肌守りと言い伝えられる観音菩薩座像(実際は地蔵菩薩座像)が祀られている。 御所五郎丸は歌舞伎や...
松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。 翌7年に許可され...
御勅使川扇状地を見渡せる高台にある山城の跡。城跡らしいものは残っていないが、城の本丸に当たるところに室町初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔が数基建てられている。 城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見...
白根町築山に鎮座する神社で、旧社格は村社、祭神は菊理媛神。境内地は150坪と規模は小さいが、一通りの施設が備わっている。 本殿は1間社流造りで、床下に浜床(はまゆか)階段上に母屋床(もやゆか)が張ってある。拝殿は寄棟造り(よせむねづく...
鎌倉期から南北朝期にみられる荘園。鎌倉期は青蓮院門跡領で、年貢は米でなく布だったという。南北朝期には勧修寺領に移っているが経緯は不明。加賀美氏は甲斐源氏の一族で、遠光は1143年(康治2年)、若神子(須玉町)逸見の館に生まれ、この地に...
データ 所在地/ 所有者、管理者/ 加賀美・法善寺 指定年月日/ 昭和46年1月28日 備考/
データ 所在地/ 所有者、管理者/ 藤田・泉能寺 指定年月日/ 昭和46年1月28日 備考/
データ 所在地/南アルプス市藤田304 所有者、管理者/明行寺 指定年月日/昭和46年1月28日 備考/
五味可都里は江戸時代後期、甲州を代表するの俳人ひとり。 名は宗蔵、号は可都里(葛里)。蕪庵(かぶらあん)と称した。 旧巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の豪農で、田園風景を素材にした温雅な作品を多く残した。 編著に『農おとこ』、『なな...
鎌倉時代に小笠原長清の孫、上野盛長の築いた城で上野城と呼んだが付近に山茶が多く、椿城とも呼ばれた。以後秋山氏が拠り、室町時代には武田大井氏の信達が居城とし、武田信虎との交戦や、大井夫人の出生等の故事で有名である。 データ 所在地/南ア...
小笠原小学校付近の小字を「御所庭」という。甲斐国志には「御所ノ庭 村ノ西ニ在リ松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭ニニシテ(略)」と記している。 データ 所在地/南アルプス市小笠原 所有者、管理者/ 指定年月日/昭...
古墳時代前半(5世紀中頃)の造出し付円墳で、径28メートルである。埋葬主体は発見されなかったが、鉄剣・管玉・須恵器などが得られている。峡西地域では物見塚古墳に次いで古いものである。 データ 所在地/南アルプス市あやめが丘1930-7他...
甲斐源氏清光の十男として生まれ、奈胡庄を領したので奈胡十郎義行と言った。 また義行は八条院蔵人であったので奈胡蔵人とも言う。平家追討に際し源氏の将として功績を挙げる。建仁3年(1203年)6月に没しており東南湖のこの地に義行の墓所、あ...
三基とも安山岩で造られているが、それぞれが誰の墓なのかは不明である。両端は同型で東側地輪左側面に貞治四年(1365年)閏9月16日の刻銘があり、室町時代の造営であることが判明した。中央の塔はさらに古く鎌倉時代初期のものと考えられる。従...
熊野神社は秋山太郎光朝の館跡であったと伝えられている。熊野神社周辺には光昌寺や光朝の要害城であった雨鳴城とともにその遺徳を偲ぶ史跡が数多く所在している。またこの地より円筒埴輪の一部が発見され古墳であったとも言われている。 データ 所在...
成妙寺の山門をくぐると「笹の葉や今に鶯年よらず」と詠われた句碑がある。 辻嵐外は江戸後期の俳人である。嵐外は明和8年(1771年)敦賀に生まれ、年に甲斐を訪れ若草町藤田の五味可都里を頼り、その後75歳まで落合を中心に甲斐の俳諧文化の向...
塚原地区は古来より塚の原っぱといわれるほど塚が存在したという。この古墳は古墳時代後期に築造された横穴式石室である。櫛形の古墳、物見塚古墳とともに甲府盆地西部の歴史の生い立ちを知る上で貴重な資料である。通称大西のおかまと呼ばれている。 ...
講演・報告会 甲府盆地の条里水田について考えるー盆地南西部を中心としてー 若草地区の加賀美・藤田、甲西地区の鮎沢・古市場・大師・清水・田島周辺に残る昔ながらの碁盤の目状の 土地区画(=条里地割)は、その期限が鎌倉時代以前にさかのぼると...