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土屋惣蔵昌恒の墓

土屋惣蔵昌恒の墓

土屋惣蔵は武田家の重臣金丸氏の4代目金丸筑前守虎義の5男に生まれる。15歳の時、駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋惣蔵昌恒と名を改めた。元亀3年(1572年)、武田が徳川と戦った、三方ヶ原の戦いで戦功をあげた惣蔵は、武田信玄亡き後、家督を継いだ勝頼の側近となった。
勝頼は美濃、遠江、三河へと破竹の勢いで進出していったが、長篠の戦い天正3年(1575年)で織田・徳川連合軍に破れ、これが武田家の衰運を決定づけることになった。惣蔵はこの戦いで武田24将にも数えられた兄土屋右衛門尉昌続と、養父貞綱を失い、急遽、甲府に帰還して家禄を相続している。敷島町島上条大庭にあったと伝えられる昌続の居館も受け継ぎ、以後そこを自身の館として勝頼に仕えた。勝頼は新府城を築城して武田陣容の立て直しに努めるが、時勢にのった織田・徳川軍は甲斐国に侵攻し、武田家の家臣たちを次々に離反、投降させていった。
天正10年(1582年)3月11日、勝頼一行はとうとう大和村田野の集落に追いつめられた。このとき惣蔵は狭い崖の道筋に立ち、左手に弦、右手に刀を持って敵軍の前に立ちはだかった。最期を悟った勝頼が自害する時間を作ったのである。崖下の川は惣蔵に切られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川(みっかちがわ)と呼ばれた。この片手千人斬りの伝説を打ち立てた惣蔵も、勝頼の後を追って悲運の最期を遂げた。多くの家臣が叛いていく中、最後まで勝頼に付き従い、主君を守り抜いた姿は、武田家最後の忠臣として後世に話り継がれている。なお、惣蔵の生家の金丸家は、2代伊賀守光信が現在長盛院がある崖上の地に館を築き、代々徳永を中心とした地域を治めた。

データ

所在地/南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/長盛院
指定年月日/昭和51年3月1日
備考/

カテゴリー

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教育委員会 文化財課

電話:
055-282-7269
Fax:
055-282-6427

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