自然と文化が調和した幸せ創造都市 南アルプス
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南アルプス市誕生までの歩み

2003年(平成15年)4月1日に山梨県中巨摩郡八田村、白根町、芦安村、若草町、櫛形町、甲西町の6町村が合併し、南アルプス市が誕生しました。

この地域は、山梨県中西部、釜無川(かまなしがわ)右岸に広がる御勅使川(みだいがわ)の扇状地と、その上流部の南アルプス山系からなる地域で、地理的・地形的に一つのまとまりを成形しています。

平坦部は、八田地区、白根地区、若草地区、櫛形地区、甲西地区の5地区が釜無川右岸にかけて広がっており、市街地は主として、国道52号沿いに形成されています。一方、山間部は、芦安地区及び白根地区、櫛形地区の一部に広がっており、特に芦安地区の大部分は、3,000メートル級の山々がそびえる南アルプス国立公園に属しています。

沿革図

南アルプス市(平成15年4月1日発足)

沿革図詳細(JPG 30.6KB)

各町村の沿革

八田村

八田村は、御勅使川によって形成された扇状地と釜無川によって形づくられた沖積低地上に立地しています。古来より本村は、二つの河川によって度重なる洪水の被害を受けてきました。しかし、同時に川を治め、その水を利用することで村は発展してきました。

村内では縄文時代中期の遺跡が発見されており、古くは縄文時代から人々が暮らしていたことがうかがえます。平安時代に入ると洪水の被害を受けにくい扇状地上に広く集落が発展しました。中世、八田村は当時御勅使川扇状地上に広がっていた八田庄に属していました。「八田村」の名称は、この八田庄が由来となっています。戦国時代の武田24将に数えられる土屋昌続やその弟であり片手千人切りで有名な土屋惣蔵は、本村の出身です。

明治8年、村北部の3村、六科村、野牛島村、上高砂村が合併し御影村が誕生、一方村南部の下高砂村、徳永村、榎原村も合併し田之岡村が成立しました。

さらに昭和31年には、御影村、田之岡村が合併し、現在の八田村が誕生しました。以後47年間着実に発展を続け、特に昭和51年からは「新しい村づくり事業」を推進展開し、様々な国、県の補助事業を取り入れるなど、八田村の基礎を築き、その功績が認められ「新しい村づくり」日本一の表彰を受けました。昭和57年には村民の悲願であった八田村立八田小学校が開校し、その後、村立中学校も開校され、教育の充実が図られました。

平成6年には、文化伝承館・天文館を建設し、昭和61年に建設された農業体験実習館「樹園」と共に、この地を「湧暇李の里」と命名し、住民のオアシスとして安らぎの場を提供しました。さらに総合交流ターミナルを建設し、都市と農村の交流を図りました。

平成13年には、情報化時代の先端を行く高度農業情報センターが建設され、図書館の開館、村営CATV局「きらめき39」を開局し、新しい世紀に向け創造的で個性ある「むら」を築くため、村民参画のもとにむらづくりを進めてきました。

白根町

古来より、度重なる御勅使川の氾濫の被害を受け、人々は水害の少ない西側の山間地に居住していました。扇状地面への居住は平安時代に入ってからと見られ、この時代に編まれた続日本後記には「承和2年(835年)4月、甲斐国巨摩郡馬相野空閑地500町一品式部卿葛原親王に賜う」とあり、この馬相野は甲斐国誌によると、御勅使川扇状地の有野であろうと言われています。鎌倉時代に入ると、この地域は八田御牧として甲斐源氏の有力な軍馬の供給地となり、村落の形成も進みました。

明治8年、飯野新田、曲輪田新田、築山、有野、塩前、大嵐、駒場、須沢の8カ村による合併で「源村」が誕生、また、百々、上八田の2カ村により「百田村」が生まれました。更に明治22年、上今諏訪、下今諏訪の2カ村による「今諏訪村」が発足して、源、飯野、在家塚、百田、西野、今諏訪の6カ村時代が永らく続きました。その後、昭和26年になると、この6村時代に終止符が打たれ、飯野、在家塚の2村が7月1日に合併し「巨摩町」が誕生し、1町4村となりました。

現在の白根町は、巨摩町が誕生した昭和26年を境に以後3次にわたる合併を経て成立していきます。出発点ともいえる1次の合併は、昭和29年2月22日に源村が5カ町村合併案から外れ、巨摩、西野、百田、今諏訪の4カ町村の合併協議が成立したことを受け、昭和29年4月1日、この1町3村により「白根町」が誕生したことです。2次の合併は、1次合併で外れた源村の南部地区、飯野新田、曲輪田新田、築山が源村から分かれ白根町へ分村編入したことです。最後となる3次の合併は、2次合併時に白根町へ編入しなかった源村北部地区との合併でした。この時は、合併反対運動が行われるなど村中に激しい対立が起こりましたが、終局的に合併推進派が主導権を握り、昭和34年5月1日に合併が成立し現在に至っています。白根町という名前は、住民になじみ深い南アルプスの白根三山に由来しています。

芦安村

山梨県の最西端に位置する芦安村は、12世紀の中頃南朝の遺臣と思われる人々が御勅使川沿いに耕地を開いて土着し、農耕と狩猟生活を営むようになったのが村落形成の端緒であると言われています。古くから伝承伝説も多く、その昔から甲斐の五山と称せられる北都留郡下3ヶ村及び旧西山村とともに山梨県内でも最も古い村の一つとされて、武田氏全盛の戦国時代からは、金の採掘と野呂川流域の森林開発が行われてきました。

明治8年1月、郡村区画整理によって武川筋芦倉村と西都筋安通村が合併し、両村の頭文字をとって今日の芦安村が誕生し、明治22年7月には村政が開始され明治36年6月に最初の村役場が建築されました。

大正期に入ると芦安鉱山の操業に伴い村の隆盛が見られましたが、昭和26年の閉山とともに他町村への出稼ぎ等で、人口の減少が目立つようになりました。昭和37年には野呂川林道が完成し、木材の伐採搬出事業が盛んに行われましたが、昭和39年の南アルプス国立公園誕生に伴い、森林資源の開発が制限され、村の過疎化進行に一層の拍車がかかったと言えます。

昭和45年より過疎地域振興対策として温泉開発事業が推進され、昭和46年11月に温泉湧出に成功、昭和51年には、南アルプス温泉ロッジの建設に着手するなど、40年代の後半は観光事業に力が注がれてきました。

昭和54年、12年の歳月をかけ、南アルプススーパー林道の全線(57km)が開通し、名称を南アルプス林道と改め、長野県長谷村と接続されましたが、自然保護の立場からマイカーの乗り入れを禁止し、芦安村と長谷村を結ぶ定期バスを運行することとなりました。

その後も、過疎対策として、村営住宅の建設、チロル学園(山村留学施設)の開設、日本第2位の高峰北岳を中心とする広大な南アルプスの観光開発、都市住民との交流を図る新緑まつり、開山祭、紅葉まつりなどのイベントの開催等を通じ地域の活性化を図ってきました。

若草町

若草町は、御勅使川によって形成された扇状地の先端部分にあり、人が住むようになったのは弥生時代になってからで、竪穴住居に住み稲作や畑作で暮らしていたと言われています。江戸中期には、農業用水堰などの水利潅漑施設が整備され、釜無川、滝沢川からの豊富な水を導いて農業生産を増やしました。明治以後の殖産興業政策によって県内では養蚕・製糸業が発展し、自給自足を続けてきた農村にも変化が生じ、三恵村加賀美地区に瓦の生産を産業とする形態も現れました。現在は、主として北部は畑地、南部は水田が広がり、農業を主産業とした田園風景が残る町として発展を続けてきました。

町の歴史は、三恵村、藤田村、鏡中条村が区制改正により、明治12年から一時期ではありましたが連合し、連合戸長役場を三恵村に設けたという経緯がありました。明治22年町村制施行と共に連合は解かれ、元の単村に戻りました。三恵村は古くは甲斐源氏の一族、加賀美次郎遠美光の所領と言われ、巨摩郡西都筋にあり十日市場・加賀美・寺部の3村に分かれていました。鏡中条村は、古来加賀美中条とも称し江戸時代には西都筋に属し、鏡中条村、下今井村とに分かれ、いずれも幕府直轄で市川代官所の所轄下にありました。また、藤田村は古くは奈湖荘に属し、藤田とも遠田とも言われ、藤田村、浅原村の2村から成り、巨摩27区に属し明治13年両村は連合したものの同17年に分離しました。

昭和29年には合併促進法の施行を受け、山梨県内新設合併第1号として若草村となり、名前はこの時の公募によって決定されました。昭和34年には町制を施行し、現在の若草町が発足しました。

櫛形町

本町内の櫛形山山麓からは、石器や縄文・弥生時代の土器、住居跡が発見されており、かなり早い時期から生活が営まれていたことがうかがわれます。また、下市之瀬地区には、峡西地域唯一の前方後円墳である物見塚古墳があり、鉄剣、銅鏡等が発見されていることから、5世紀前半には大きな勢力を持つ支配者が存在していたと思われます。

平安時代に入ると、甲斐源氏の流れをくみ鎌倉幕府の創立に係わった小笠原二郎長清が現在の櫛形町小笠原を所領し、後に京都に移り住み、その子孫は信濃、阿波など全国各地の守護藩主となり、小笠原の名を広めました。当町小笠原は、いわば小笠原氏発祥の地と言えます。

江戸時代の慶長17年(1612年)には富士川舟運が始まりました。荷揚げ基地が鰍沢に設けられたため、小笠原は駿河と信濃を結ぶ「駿信往還」の宿場町として栄えました。

明治5年には、区・村制が公布され、同7年には野々瀬村、8年には榊村、豊村、明穂村と、現在の本町を形成する村が相次いで誕生しました。また、殖産興業政策により、峡西地域では生糸生産が活発となり、本町でも養蚕が盛んに行われる一方、鉄道の開通や道路整備により、富士川舟運は次第に衰えていきました。

第2次世界大戦後、昭和29年には小笠原町、榊村、野之瀬村(注1)が合併して櫛形町が誕生し、町名は、町の西方にそびえる櫛形山の名に因んで「櫛形町」と命名され、昭和35年には豊村が編入し、現在の形となりました。

こうした中で、経済構造の変化や外国との競争力の低下などに伴い生糸生産は次第に衰え、桑園は果実畑に姿を変えました。現在は、桃、スモモ、ぶどう、さくらんぼを中心とする様々な果物を生産するとともに、製造業の隆盛に伴い、町内外からの工場誘致も積極的に行われ、輸送機械、電子部品など様々な企業が立地されるとともに、行政、産業、交通などの要衝として国や県などの数多くの行政機関の支所や民間企業の事業所が置かれ、峡西地域の中心として発展を続けてきました。

(注1:明治22年7月23日に野々瀬村から野之瀬村に村名が改正されました。)

甲西町

甲西町は、昭和30年に落合村、大井村、五明村、南湖村が合併したものが母体となり、昭和32年に櫛形町との境界編成(下宮地の一部分離、櫛形町山寺の一部編入)を経て現在に至っています。

甲西町には、古くから先人が住み着いており、縄文土器その他の発掘などを通じ、その起源は縄文時代中期にさかのぼり、弥生時代には、台地や扇状地、天然湧泉地の周辺に遺跡が発見されており、これらの立地条件から水田耕作が行われ、集落が発達してきたものと考えられています。

奈良時代には、大化の改新以来、国郡制が施行され、正倉院文書の中に「巨麻」の郡名を見ることができ、また、和名抄には「大井の郷」の郷名を見ることができます。「大井」は、古くより「於保井」「多井」とも書かれ、湧水の豊富な場所を意味する地名です。

平安時代の初期、藤原一門の領家として大井庄ができ、やがて加賀美遠光が領有するとともに、この頃から、班田制は崩れて郷も荘園となり、「大井の庄」と呼ばれるようになりました。

戦国時代は、甲斐源氏の一方の雄として大井氏が活躍し、大井夫人(大井信達長女)が嫁いだ武田信虎によって甲斐国統一がなされました。

江戸時代には、享保の改革によって幕府の直轄地に編入され、比較的豊かな田作地帯として、大規模な地主制が展開されましたが、一方で、生活の苦しい水呑百姓の割合も多く存在しました。初期に今市として発達した荊沢村は、西郡路または駿信往還との商業的な宿場(荊沢宿)として賑わい、地域文化の拠点となっていました。

なお、「甲西」という言葉は古くから、「甲斐の国の西方」とか、「甲州の西」、「西都」などから一般に呼ばれていたもので、昭和30年4月1日の合併の際、広く町民より町名を募集して一位となったのが「甲西」でした。

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