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春仙の挿絵

春仙の画業

名取春仙写真

1886年(明治19年)南アルプス市小笠原に生まれた名取春仙(1886‐1960)は、東京で育ち11歳の頃より日本画を習い始め、その才能は早くから認められました。
春仙は日本画家として本格的な創作活動を行う一方、夏目漱石、島崎藤村などの新聞小説の挿絵や石川啄木らの文芸本の装幀口絵等を手がけ、名を広めていきます。
また、演劇界との結びつきも深く役者似顔絵を描き、大正時代には版元・渡邊庄三郎のもと役者絵版画を手がけ好評を博し、明治以来沈滞していた浮世絵版画に新風をそそぎました。

 

春仙の挿絵

名取春仙挿絵

日本画の画風に洋画の構図を取り入れ、新感覚と風格のある描写で小説家の意図と調和する名取春仙の小説挿絵は、新聞界の注目を浴び「挿絵の革命」と絶賛されました。
春仙自身、小説挿絵に対する感覚を「読者のイリュージョンを扶けるより、却ってそれを壊すような結果になり易い、それだからなるべく簡単に一章の感じ、一句の印象を捉へて描くといったようにして」(自著『デモ画集』)いたと語っています。
二十歳代の春仙は、夏目漱石著『三四郎』や島崎藤村著『春』の小説に描かれた主人公と同年代であり、描写の中に青年達の微妙な心の動きまでも表現できたのでしょう。
「若鮎のようにはつらつとし、とりたてのメロンのように新しい香気に満ちている」と春仙の挿絵について述べられた一文をみることもできます。

 

「春仙の芸術 ―歌舞伎浮世絵版画最後の巨匠―」

山口桂三郎

浮世絵の三大テーマの一つである役者絵は、浮世絵の源流である近世初期風俗画にはじまり、慶長頃の歌舞伎の創出者阿国の舞姿を絵画化した時まで遡ることが出来る。遊女・若衆歌舞伎を経て、野郎歌舞伎に至り、元禄期を迎えると近松門左衛門など浄瑠璃・歌舞伎作者と江戸の市川団十郎、京阪の坂田籐十郎などの名優を配し、歌舞伎の芸術性をふまえた確かな歩みがはじまる。この頃浮世絵も肉筆に加え菱川師宣により版画が導入され、庶民の芸術として発展する。
17世紀後半には江戸歌舞伎専属の浮世絵の一派鳥居派が誕生し、浮世絵版画全史を縦走し、3世紀にわたり伝統を継承している。明和2年鈴木春信は、錦絵(多色摺)を創出し、その技法により一筆斎文調、勝川春章は役者絵に似顔描写を取り入れた。その後勝川派の絵師が全身像のみであった浮世絵に、大首絵(上半身をアップにして描く)を登場させる。これらの新機軸は歌舞伎専属の鳥居派ではない絵師によって開拓された。寛政期に至り東洲斎写楽、歌川豊国などが現われ役者絵は最盛期を迎え、この後は浮世絵全体が幕末の頽廃的傾向に堕ちた。
明治になり浮世絵はさらに低調化する。明治37年からは自画自刻自摺を標榜する創作版画活動がおこるが、大正に入ると、活動自体がマンネリ化し、その機運に乗じて大正4年には、深く浮世絵の版画技法を研究した渡邊庄三郎により新版画運動がはじまった。庄三郎に見出された名取春仙は、浮世絵在来の版元制度により、斬新な役者絵を創作した一人であった。大正期においても鳥居派以外の絵師により新しい役者絵の様式が誕生したといえる。
名取春仙は、明治19年山梨県南アルプス市(旧・櫛形町)に生まれ、翌年東京に移り、明治33年日本画家久保田米遷・金遷に入門。その後平福百穂に私淑、また福井江亭に洋画を学んだ。明治40年から東京朝日新聞において連載小説挿絵を描き、版画に対する感覚をかなり育て上げていったといえる。大正4年6月、小冊子『新似顔(やくしゃえ)』の出版に参加し、中心的役割を果たしている。新似顔は同年11月発行の五編で終刊を迎えるが、この間に恐らく渡邊庄三郎との出会いがあったのかも知れない。その画博堂の劇画展覧会に出品した『鴈治郎の椀久』を庄三郎が版画にしたのが翌年の大正5年である。画博堂の主人松井清七もまた、大正新版画運動について重要な役割をなしている。
浮世絵を明治末になっても正当に評価出来なかったなかで、春信・歌麿・広重を木版独自の特色という点から評価し、写実主義の影響を受けた明治浮世絵版画はすでに木版の妙味はなく、その明治の複製的版画の否定から創作されたものが庄三郎の新版画であった。庄三郎は最初から画家に版画の特質について了解を求め、画家の思うままに彫り摺りを試み、あくまで画家の個性を十分に発揮することを新版画のあり方とした。
その後春仙と渡邊庄三郎が手掛けた春仙版画の大きなシリーズは二つある。
その一つは「創作版画春仙似顔集」で大正14年から毎月1回1図の予約出版で、昭和4年1月に完了している。これは菊池芳丸が企画し、木版制作を版元の庄三郎に依頼してはじめたものであったが、会員が集まらず、庄三郎が引継ぎ第2回の5月から新しく頒布し36枚で終わっている。なお追加15枚があり、これらは春仙版画の最盛期を形成している。春仙自身のすぐれた資質によるものではあるが、庄三郎というよき版元と出会えた賜物といえよう。
その第二は「新版画舞台之姿絵」で、昭和29年に頒布を終えた25枚の作品である。ここには、「似顔集」にみられるシャープな描写は失われ、甘いベールにおおったような感じがみられる。しかし歌舞伎絵を手掛けた長年の経験は、春仙芸術の最後を飾るにふさわしいシリーズとなっている。
春仙の画業は、肉筆に挿絵に版画に才能のきらめきを見せているが、特に際だつのが“似顔大首絵”の役者版画の作品群である。
歌舞伎はもともと理屈抜きで、手放しで感激して観るものであるが、明治以後の上品になった歌舞伎は江戸本来のものと大分違った趣をもってきた。大衆の生の声を反映し、歌舞伎のもつ娯楽性を表現する役者絵の領域では素直に美しさを色あざやかに描出し、歌舞伎ファンを堪能させる役目が、本当の伝統である。この意味において春仙の果たした業績は、歌舞伎の華麗さを、役者の志す演技をそのまま観る者に温かく伝える名作を残したことにある。浮世絵が伝襲してきた版元制度のなかで、最後の歌舞伎版画の絵師であり、その掉尾を飾るにふさわしい春仙の偉業は、今後もさらに評価を高めていくことであろう。

名取春仙略年譜

名取春仙略年譜
西暦
(和暦)
年齢 内容
1886
(明治19)年
0歳 2月7日、山梨県中巨摩郡明穂村(現・南アルプス市小笠原)の名取市四郎・みちの五男に生まれる。本名・芳之助。号を春仙(川・僊)、岱紫洞、黛子洞(堂)、梶蔦斎(亭)、青紫亭などと称す。
父・市四郎は屋号を「両国屋」と称し、綿問屋で雑貨も広く商う。別に峡西地方の金融業「十圓社」を興し、「第十国立銀行」(現・山梨中央銀行)の創設に際しても若尾逸平らと資金を拠出。山梨県の初代県議会議員の一人でもあった。二男・桑二郎は烏川と号す画家。
1887
(明治20)年
1歳 父・市四郎の経営不振による倒産。一家で上京し、東京市麻布日ヶ窪町に転居。
1889
(明治22)年
3歳 東京市日本橋区檜物町4に転居。
1892
(明治25)年
6歳 東京市立城東尋常高等小学校入学。同窓に岡本一平、川端龍子、仲田勝之助、横地信輔、中西一郎らがいた。
1893
(明治26)年
7歳 東京市京橋区瀧山町9に転居。
1896
(明治29)年
10歳 東京市立城東尋常高等小学校卒業、同高等科に進学。
1897
(明治30)年
11歳 日本橋数寄屋町の綾岡(池田)有真に日本画の基礎と着彩の技法を学ぶ。
1899
(明治32)年
13歳 正則中学校入学。
1900
(明治33)年
14歳 芝桜田町にある久保田米遷の司馬画塾に入門。米遷失明後はその子金遷より学び、米遷からは漢籍、美術史を学ぶ。
平福百穂・結城素明が自然主義を標榜した无声会を結成。
1902
(明治35)年
16歳 「秋色」「霜夜」を第十三回日本絵画協会展、第八回日本美術院連合共進会展に出品。 「摘草」を第五回无声会展に出品。「牧牛図」(水墨二曲屏風)を真美会に出品し褒状を受ける。
1903
(明治36)年
17歳 「春」を真美会に出品。
1904
(明治37)年
18歳 東京美術学校日本画撰科入学。
1905
(明治38)年
19歳 日本画家・平福百穂に私淑、福井江亭より洋画を学ぶ。
東京美術学校日本画撰科中退。神田明神下に転居。京橋槙町廣文社で口絵並びに挿画を描く。
1906
(明治39)年
20歳 平福百穂、水野輝方らと共に実用図案社で働く。
久保田米遷死去。
1907
(明治40)年
21歳 6月、東京朝日新聞社嘱託となる。
『我れや人妻』青木苫汀著の口絵挿画を廣文堂より刊行。夏目漱石「虞美人草」(6月23日~10月29日まで東京朝日新聞にて連載)を手初めに新聞小説の挿絵を手がける。
1908
(明治41)年
22歳 『村の人』田山花袋著、名取春仙装幀を如山堂書店より刊行。
1909
(明治42)年
23歳 12月、東京朝日新聞社社会部に入社(この時の社会部部長・渋川玄耳、次長・山本笑月)。新聞小説の挿絵の他、国会審議を報道するスケッチ等を描く。春仙のものは藤岡東光堂が木版にする。
この頃、東京府荏原郡海晏寺前に転居。
1910
(明治43)年
24歳 「松助の顔」(素描)を无声会に出品。
自著『デモ画集』を出版。渋川玄耳著『日本神典古事記噺』(博文館)、石川啄木著『一握の砂』(東雲堂)、岩野泡鳴著『放浪』(東雲堂)等の挿絵、装幀を手がける。
1911
(明治44)年
25歳 岡本一平・仲田勝之助との共著『漫画と訳文』(廣文堂)、渋川玄耳との共著『日本之神様』(有楽社)、尾崎紅葉・太田三郎・川端龍子との共著『金色夜叉画譜』(博文館)等を出版。
3月、竹内すずとの間に春江誕生。東京府文京区新栄町4-1に新居を構える。
荻原井泉水の主宰する俳挿絵誌『層雲』の表紙を描く。春仙は『層雲』の挿画・カットの選者となり画評を同誌に行うほか、挿画・カットの批評研究を岡本一平らと行い、砂文字会記事として同誌に掲載。
1912
(明治45・大正元)年
26歳 「神話」「南国へ(人)」「麒麟ト獅子」「小鳥(団扇)」を第十二回无声会展に出品。
『藪野椋十世界見物』渋川玄耳著、名取春仙装幀挿画を有楽社より刊行。
『演芸画報』『演芸倶楽部』の口絵挿画を手がける。
東京朝日新聞「行人」夏目漱石著、名取春仙挿画を12月6日~翌年11月17日まで連載。
山本笑月と京都桃山へ大喪の礼を取材。
1913
(大正2)年
27歳 「酒の女」を第十三回无声会展に出品。
1月、渋川玄耳退社に伴い東京朝日新聞社社会部退社、その後も新聞連載小説の挿絵は継続。
『眼鏡』島崎藤村著、名取春仙装幀挿画を実業之日本社より刊行。『小さな鳩』田山花袋著、川端龍子装幀挿画、名取春仙挿画を実業之日本社より刊行。『藪野椋十わがまゝ』渋川玄耳著、名取春仙装幀を誠文堂より刊行。
1914
(大正3)年
28歳 3月、長男・功男誕生。
「夕刊賣」を漫画展覧会(上野松坂屋)に出品。
1915
(大正4)年
29歳 小川芋銭・平福百穂・小川千甕・川端龍子・山村耕花・名取春仙・鶴田吾郎・池田永治の8人により珊瑚会を結成。
「神代の人」を琅玕洞扁額展に出品。
『やくしゃえ新似顔』(第一回初編)を似顔洞より刊行(初編には木下杢太郎の序文がある。名取春仙の他、松田青風、鳥居言人(清忠)、小川兵衛、山村耕花が役者絵木版画を制作。同年中に五編を刊行)。
東京朝日新聞「奔流」徳田秋声著、名取春仙挿画を9月16日~翌年1月14日まで連載。
1916
(大正5)年
30歳 「鴈治郎の椀久」を第二回劇画展覧会(画博堂)に出品。同年、渡邊庄三郎により「初代中村鴈治郎紙屋治兵衛」として出版し、好評を博す。
「韮山の太閤」「伊會保物語」を琅玕洞画廊に出品。
2月10日、層雲社による春仙画会を開催。
第二回珊瑚会展が開催。
『イソップ物語』楠山正雄訳、名取春仙他挿画を冨山房より刊行。『日露戦争従軍三年・日独戦役小敵大敵』渋川玄耳著、中村不折・名取春仙挿画を磯部甲陽堂より刊行。『鬼の面』谷崎潤一郎著、名取春仙挿画装幀を若月書店・加集文楽堂より刊行。
東京朝日新聞「鬼の面」谷崎潤一郎著、名取春仙挿画を1月15日~5月25日まで連載。
東京朝日新聞「明暗」夏目漱石著、名取春仙挿画を5月26日~12月14日まで連載。
1917
(大正6)年
31歳 3月、三田はなと結婚。
「潮盈つ珠潮干る珠」(六曲屏風)を再興第四回日本美術院展に出品。「海の幸」を第三回珊瑚会展に出品。「梅幸のお富」を第三回劇画展覧会(画博堂)に出品。渡邊庄三郎により「六代目尾上梅幸お富」として出版。
『藪野椋十日本と世界見物』渋川玄耳著、名取春仙挿画装幀を有楽社より刊行。
東京朝日新聞「残雪」田山花袋著、名取春仙挿画を11月17日~翌年3月4日まで連載。
1918
(大正7)年
32歳 「劇場の巻」を谷中日本美術院で開かれた日本美術院第四回試作展覧会に出品。入選し奨励賞を受賞。
「鵜茅の産屋」を第四回珊瑚会展に出品。「鎌倉大仏」を広島市文部省展覧会に出品。
『江戸情緒と悪の讃美』高須梅渓著、名取春仙装幀口絵を岡村書店より刊行。『残雪』田山花袋著、名取春仙装幀挿画を春陽堂より刊行。『東京夜話』久保田万太郎著、名取春仙装幀を新潮社より刊行。『マドロスの悲哀』米窪太刀雄著、名取春仙挿画を中興館書店・誠文堂より刊行。『日本温泉案内』『日本名勝案内』旅行案内社編、名取春仙装幀を誠文堂より刊行。
東京朝日新聞「黒い流」野村愛正著、名取春仙挿画を8月6日~12月29日まで連載。
1919
(大正8)年
33歳 田山花袋「新しい芽」(8月11日~10月23日)を最後に、東京朝日新聞の連載小説挿絵を終了する。
「緑の裡の光り」を第五回珊瑚会展に出品。
1920
(大正9)年
34歳 偽作事件の嫌疑がかけられ、日本美術院を脱退。
この頃、東京府豊多摩郡中野町大字本郷485に転居。
この年、中国山東省・四川省に遊ぶ。中国山水画、並びに書を学ぶ。
1922
(大正11)年
36歳 「サンデー毎日」の創刊にあたり挿絵等を手がける。
1923
(大正12)年
37歳 この年、帰甲し郷里・明穂村の愛山楼で画会を開く。
東京市芝区田村町60に転居。
1924
(大正13)年
38歳 『演芸画報』の表紙として通年、12図を制作し「当代名優似顔集」として出版。
『芝居とキネマ』の創刊にあたり大正新似顔絵と称して「尾上梅幸玄冶店のお富」を描く。『劇と映画大正名優鑑』の口絵に「中村雁治郎の紙治」「尾上菊五郎の娘道成寺」を描く。
萬朝報社に絵画部主任として入社。
1925
(大正14)年
39歳 渡邊庄三郎の企画による「創作版画春仙似顔集」(渡邊木版美術画輔刊)の制作をはじめる(大正14年5月より頒布し、昭和4年1月完了、36枚揃)。
『キング』の創刊にあたり挿絵等を手がける。
1926
(大正15・昭和元)年
40歳 「傾国幻想」(三曲屏風)を第一回聖徳太子奉讃美術展覧会に出品。
『大衆文芸』の創刊にあたり挿絵等を手がける。
東京府豊多摩郡中野町大字本郷485に転居。
1927
(昭和2)年
41歳 「吉右衛門の熊谷」(二曲屏風)を第二回日本劇画会展覧会に出品。
野田素峰が主宰する掬水園(雀のお宿)(岐阜県木曾川町)において柳原白蓮と知り合う。9月、同園にて風景画の画会を開く。
11月、父・市四郎死去。
1928
(昭和3)年
42歳 「妖氣結魂」を第三回日本劇画会展覧会に出品。
1929
(昭和4)年
43歳 「春仙似顔集追加」を頒布(新派も含めて昭和9年までに15図作成)。
1930
(昭和5)年
44歳 伊藤深水、川瀬巴水と共に「アメリカン・マガジン・オブ・アート」で役者絵版画家として紹介される。
「澤田の沓掛時次郎」を第五回日本劇画会展覧会に出品。
1931
(昭和6)年
45歳 浮世絵版画の功績により、オハイオ州東洋美術館より賞牌を受ける。
1月、妻・はな死去。
1932
(昭和7)年
46歳 「創作版画春仙似顔集」(36枚)他を第三回現代創作木版画展覧会に出品。
母・みち死去。
1933
(昭和8)年
47歳 この頃、愛知県・岐阜県に逗留し「尾張一宮名勝図絵」「恵那八勝」を制作。
柳原白蓮との合作による詩画を大阪柳屋画廊より頒布。
10月、ワルシャワ国際版画展に伊藤深水、川瀬巴水等と共に出品。
1934
(昭和9)年
48歳 2月、桑田繁子と結婚。
1935
(昭和10)年
49歳 5月、郷里・明穂村に約2ヶ月滞在。料亭・清月で画会を開催。
10月、甲府桜町の料理屋・開峡楼で画会を開催。
浄慶山久成寺四六堂に絵馬を奉納。
「花莫梅枝面影」を日本美術倶楽部より出版。「淀君」矢田三千男監修を出版。
『吉野朝太平記』鷲尾雨工著、名取春仙装幀挿画を春秋社より刊行。
『書物展望5-10』(通巻52号)挿絵研究特輯に「私の挿絵回顧」を執筆。
1936
(昭和11)年
50歳 「再挙」を改組第一回帝国美術院展に出品。
「解脱」矢田三千男監修、市川宗家蔵版を出版。
米国オハイオ州にあるトレド美術館にて2回目の展覧会を開催。
4月、長女・良子誕生。豊島区東長崎町1-1025に転居。
『東陽9月号1-5』に掲載された挿絵座談会に石井鶴三・木村荘八・小杉放庵・岩田専太郎・河野通勢らと共に参加。
1937
(昭和12)年
51歳 名取春仙歌舞音曲画題小品展(銀座ラテン画廊)を開催。
山梨美術協会発足に、望月春江・近藤浩一路・穴山勝堂・大河内夜江等と共に参加。
『吉野朝太平記』(普及版)鷲尾雨工著、名取春仙装幀挿画を春秋社より刊行。
『雄辨』に掲載された鷲尾雨工著「杜鵑花」に挿画を描く。
1938
(昭和13)年
52歳 『明智光秀』鷲尾雨工著、名取春仙装幀挿画を春秋社より刊行。
1939
(昭和14)年
53歳 挿画倶楽部による第一回挿画展(銀座三越)に鷲尾雨工著『織田信長』の挿画2点を出品。
春仙画塾の川口春波・神谷道緒・森春鳥・若村霊峰・大森千章等と永日社展(伊勢丹)を開催。
大日本海洋美術展に「山幸彦」などを出品。
1940
(昭和15)年
54歳 近松百年忌記念十二ヶ月の内「博多小女郎浪枕」を出版。
「明治・大正・昭和挿絵展覧会」を三越本店及び大阪店で開催(金井紫雲が『煤烟』森田草平著・名取春仙挿画の綴込一冊を、「名作」に因る新作挿絵として春仙が島崎藤村著『春』の挿画を出品)。
1941
(昭和16)年
55歳 「大日本神典画巻」の制作に着手。「橘(カグノコノミ)」を第五回大日本海洋美術展に出品。
兵庫県西宮市甲子園ホテル前に転居。
『明治・大正・昭和挿絵文化展記念図録』不破瑳磨太編を日本電報通信社より刊行。『歴史小説安土・桃山織田信長(一)~(七)』『歴史小説安土・桃山豊臣秀吉(一)~(五)』鷲尾雨工著、名取春仙装幀挿画を春秋社より刊行。
1942(昭和17)年 56歳 「鏡獅子(後シテ)」を第一回日本劇画院展覧会に出品。
1943
(昭和18)年
57歳 海軍報道部嘱託となり、土浦航空隊兵舎に「雄飛」を制作。浮世絵名作展に出品。
1947
(昭和22)年
61歳 『家庭と防犯』(東京防犯協会連合会発行)の挿絵を手がける。
目黒区鷹番町135に転居。
1948
(昭和23)年
62歳 福島県飯坂温泉、喜多方市、会津磐梯町、山都町などを訪れる。
春仙の中央画壇への再進出を期待する同好有志が、明星会を組織する(幹事に日向野清・越川輔直・名取功男、賛助に鷲尾雨工・萩原井泉水・川端龍子・市川三升、顧問に夕刊みやこ新聞社取締役会長・土屋齊、仮事務所を東京都杉並阿佐ヶ谷6-220、名取功男方に置く)。
1949
(昭和24)年
63歳 「菊五郎舞踊姿」(5枚揃)を加藤版画研究所より出版。
1950
(昭和25)年
64歳 港区青山南町5-45、中臣方に転居。
1951
(昭和26)年
65歳 「新版舞台之姿絵」を渡邊木版美術画舗より出版(25枚揃で昭和29年まで頒布)。
「佐々木小次郎」「カルメン」を第二十五回日本劇画院展に出品。
中野区昭和通3-7、今井方に転居。
1952
(昭和27)年
66歳 春仙水墨画展を開催。 
年賀切手の渡邊版初日カバーに春仙の作品が用いられる。
「十五代目市村羽左衛門義経図」を銀座菊廼屋での展覧会に出品。他に前田青邨・安田靫彦等が出品。
6月、福島県飯坂温泉や静岡県を訪れる。
1953
(昭和28)年
67歳 年賀切手の渡邊版初日カバーに春仙の作品が用いられる。
「初代中村吉右衛門像」「聊斎志異絵巻」の制作に着手。
1954
(昭和29)年
68歳 翌年にかけて山形県、福島県、岐阜県恵那市、愛知県碧南市などを訪れる。
杉並区阿佐ヶ谷3-532に転居。
1958
(昭和33)年
72歳 歌舞伎座で開催される新派舞台の絵看板を手がける。
2月2日、長女・良子肺炎のため死亡。
東京青山にある菩提寺・高徳寺本殿新築に際し、本殿板戸に「唐獅子」を描く。
杉並区阿佐ヶ谷2-630に転居。
1960
(昭和35)年
74歳 3月、四国行脚。その後、大阪、福島を訪れる。
3月30日午前7時、妻・繁子と共に高徳寺境内名取家墓前にて服毒自殺、享年74歳。戒名は浄閑院芳雲春仙信士。
死去に伴い遺書を遺している。「最後の場所を求めて四方に旅するも、結局、良子のそばを望み、甚だ貴院にご迷惑千万、おわび申し上げます。調布のほうに万事相談下さい。一人残されては双方とも本意なく、ともにゆき升。取り急ぎ・・・・」

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