市指定文化財

市指定文化財を紹介します。

更新日 2016年12月22日


建造物
沢登六角堂
沢登六角堂
所在地/ 南アルプス市沢登663
所有者、管理者/ 沢登区
指定年月日/ 平成9年7月30日
備考/
解説
聖徳太子信仰を伝える六角堂建築として貴重であり、堂内には聖徳太子像と太子が信仰した如意輪観音が祀られている。
天正18年(1590年)七ツ内地内の龍沢寺当方にあった堂は、寛文4年(1664年)にこの地にうつされたが、文化4年(1807年)の大火により焼失した。翌年より再建が計画され文化7年(1810年)に再建された。
1辺が約3.06メートルの六角平面形を成し、柱も六角柱で造られている。
建物は戦後に一部修理が施されたが江戸後期の数少ない六角堂形式の建造物として貴重なものである。
矢崎家住宅
矢崎家住宅
所在地/ 南アルプス市有野1204
所有者、管理者/ 個人
指定年月日/ 昭和53年2月16日
備考/
解説
有野の故矢崎徹之介氏の居宅で、甲府盆地西部では最も古い民家である。建てられたのは、江戸時代初期、寛文以前の建築である。
矢崎氏はもと青木氏の出で、武田信玄公の時代に有野に所領を得て、信州からここに移った地侍であった。その後、江戸時代を通じ有力農民として名主を勤めている。
広い屋敷内には南に長屋門を構え、母屋の西北に文庫蔵が続き、北側にも大きな土蔵がある。
古さの見どころは、13本残っている柱にハマグリ手刃の跡が見られること、屋根裏の小屋組は当初のままで、小屋東に貫が離れて交わっていることなどである。
若宮神社本殿
若宮神社本殿
所在地/ 南アルプス市飯野2175
所有者、管理者/ 若宮神社
指定年月日/ 昭和57年11月30日
備考/
解説
建立年代は不明だが、元禄2年(1689年)奉上葺の棟札があるので建立年代はこれより前の寛文期(1662年から)、」ごろと思われ、様式も一致する。
本殿は一間社流造(ながれづくり)で、桁行1.56メートル、梁間1.40メートル、向拝梁間0.83メートル、建坪約3.48平方メートル。
昭和31年に屋根の修理が行われ、ヒノキ皮葺から銅板葺に替えられた。保存状態もよく、すぐれた形姿をもち、本市では第一級の価値のある社寺建築である。
宗林寺七面明神社本殿
宗林寺七面明神社本殿
所在地/ 南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/ 宗林寺
指定年月日/ 昭和52年11月22日
備考/
解説
鋳物師屋(いもじや)村の鎮守と言い伝えられ、一間社流造、桁行0.91センチメートル、梁間0.82センチメートル、棟高2.88センチメートルである。各部に濃厚な桃山風の特色の残る江戸初期の建物である。
諏訪神社の石鳥居
諏訪神社の石鳥居
所在地/ 南アルプス市平岡1611
所有者、管理者/ 平岡区
指定年月日/ 昭和61年9月1日
備考/
解説
石段の中程にあり、宝永五年(1708年)の銘がある。笠木の上面に一対の竜が彫り出されあり、願い事を呑み込んでくれるとお詣りする人が多かったと言われている。
上宮地伝嗣院の大日如来座像
上宮地伝嗣院の大日如来座像
所在地/ 南アルプス市上宮地1408-1
所有者、管理者/ 伝嗣院
指定年月日/ 平成元年5月31日
備考/
解説
伝嗣院の旧寺領内にあり、御幸道の脇に富士山に向いて建てられている。高さ1.6メートル、幅1.2メートル程である。髪は螺髪で智挙印を結ぶ。右膝部に「寅山代」、像背に「寶永歳」の刻印がある。
上市之瀬八幡神社本殿附修理棟札古材
上市之瀬八幡神社本殿 1棟 附棟札及び古材
所在地/ 南アルプス市上市之瀬1029
所有者、管理者/ 上市之瀬区
指定年月日/ 平成2年2月28日
備考/
解説
一間社流造の建物で、江戸初期のものとみられる。宝殿地内(上市之瀬1315地先)から現在地に遷されたものといわれ、平成元年原形に忠実な解体修理が行われた。
高尾穂見神社神楽殿
高尾穂見神社神楽殿
所在地/ 南アルプス市高尾485
所有者、管理者/ 穂見神社
指定年月日/ 平成5年11月25日
備考/
解説
明治24年の建立、桁行1間、梁間1間、四面入母屋造の建物で、入母屋の軒は唐破風をつけている。この建物で太太神楽が演ぜられ奉納される。
江原浅間神社本殿
江原浅間神社本殿
所在地/ 南アルプス市江原1302
所有者、管理者/ 江原浅間神社
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
江原浅間神社
江原浅間神社
当社の祭神は木花之開耶姫命(このはなのさくやひめのみこと)で、古来江原地区は湧水が豊富で稲作が盛んに行われていたことから、稲作の神としてその恩恵に浴し、毎年初穂を献じて五穀豊穣を祈願した。 本殿は三間社(さんげんしゃ)流れ造り桧皮葺(ひはだぶき)屋根で桃山時代の作風を残す江戸時代前期の建築である。
 
絵画
長盛院の絹本著色仏涅槃図(けんぽんちゃくしょくほとけねはんず)
長盛院の絹本著色仏涅槃図
(けんぽんちゃくしょくほとけねはんず)
所在地/ 南アルプス市徳永1683
所有者、管理者/ 長盛院
指定年月日/ 昭和59年3月1日
備考/
年代 江戸時代元禄13年(1700年)
作者 中西氏家信
解説
涅槃図は釈迦が入滅する情景を描いたもので、仏教絵画の代表的主題のひとつである。
本図中央には、北を枕にし西を向いて横たわる釈迦が配置され、その周囲には菩薩や諸天、仏弟子、さらに雉や象、獅子などの鳥獣までもが嘆き悲しむ様が描かれている。
右上方には、仏母摩耶夫人(まやぶにん)が悲報を聞いて天上界から飛来した姿が描かれている。上方中央の満月や背後に描かれた跋堤河(ばっでいが)(釈迦が人滅した場所を流れる川)、釈迦を取り囲む8本の沙羅樹は釈迦入滅を表す一連のモチーフである。本図は、豪放さと緻密さを兼ねあわせた優品である。
本図の左下に「維時元禄十三年庚辰七月大吉祥日、山城国愛宕郡平安城万寿寺通高倉西入ル、絵所中西氏家信拝書之」と書かれており、製作年代や作者を知ることができる。
絹本着色釈迦涅槃図一幅
絹本着色釈迦涅槃図一幅
所在地/ 南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/ 法善寺
指定年月日/ 昭和51年1月1日
備考/
解説
釈迦涅槃図で最古のものは応徳三年(1086年)作画の高野山金剛峯寺所蔵のものであるが、鎌倉時代になるとこれが普及し数多く描かれるようになり、図柄も時代と共に変化してきている。法善寺蔵のこれは寛文四年(1664年)東福寺の自得という僧の作であるが、おそらくは明兆の系譜をつぐ絵仏師であろう。
絹本着色弘法大師像図
絹本着色弘法大師像図
所在地/ 南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/ 法善寺
指定年月日/ 昭和51年1月1日
備考/
解説
この図は高野山の御影堂に祀ってあるものと同一の図柄で、真如法親王が生前の空海のお姿を自ら写されたものとされている。 真如法親王は平城天皇第三皇子であるが、出家して東大寺に学び後空海の弟子となった。求法のために唐から印度へ向かう途中、虎害にあい78歳で葬ぜられたといわれる。この図の裏書によれば寛永7年の作であり、出所等も明白で作画もすぐれているので古美術品としても貴重なものである。
掛絵六地蔵菩薩像6面付厨子・地蔵菩薩像縁起一巻
掛絵六地蔵菩薩像6面付厨子・地蔵菩薩像縁起一巻
所在地/ 南アルプス市十日市場
所有者、管理者/ 安養寺
指定年月日/ 昭和51年1月1日
解説
桧板に描かれた地蔵、餓鬼、畜生、修羅、人間、天の六道衆生救済の地蔵尊像を岩絵具であらわしたものである。それぞれ元和五巳未正月吉日。野呂瀬主税助とある。長さ41.5センチメートル。幅28センチメートル。画像は平均高35センチメートル、縁起は鼻採地蔵縁起と初めに記されてある軸もの、巻子本である。見返りを除いて長さ362センチメートル。幅34センチメートル。末尾に、寛永17癸未霜月甘四日直自とある。地頭野呂瀬主税助直自(徳川家康臣甲府城代平岩親吉家臣)の筆とされる。
隆昌院釈迦涅槃図
隆昌院釈迦涅槃図
所在地/ 南アルプス市江原1550
所有者、管理者/ 隆昌院
指定年月日/ 平成元年2月27日
備考/
解説
江原山隆昌院は寛正3年(1462年)に開基し、本尊は千手観音である。
この涅槃図の伝来は不詳であるが、上方軸芯部に墨書で寛文11年(1671年)との銘記が発見された。四枚の絹を女性の手によって縫い合わせた庶民的な作品であり、仏教の教えが庶民に厚く広がっていた事を示す貴重な作品である。
法量 縦 261センチメートル  横 157.5センチメートル
飯縄権現造図
飯縄権現造図
所在地/ 南アルプス市江原1550
所有者、管理者/ 隆昌院
指定年月日/ 平成元年2月27日
備考/
解説
飯縄権現信仰は北信州飯縄山に対する山岳信仰として知られている。室町時代武州高尾山に入山した俊源大徳が修行の結果、一夜の霊夢によって飯縄権現を感得し、その像を刻み一山の守護神として山頂に勧請したことにより、関東一円に広がったと言われている。本図は作者、伝承等は不詳であるが、江戸初期の作品だと考えられる。
彫刻
厨子入り地蔵菩薩坐像
厨子入り地蔵菩薩坐像 1躯 附厨子
(もくぞうずしいりじぞうぼさつざぞう)
所在地/ 南アルプス市
所有者、管理者/ 法幢院
指定年月日/ 昭和51年1月1日
備考/
解説
法憧院所蔵の本像は、戦国時代の様式をよく伝えるまとまりのいい作例といえる。
厨子は仏堂を模した宮殿の形で小型ながらどっしりとした趣があり、中世に遡る単独の厨子は県内ではめずらしい。
厨子内面の三つの壁面全体に記される墨書は、天文3年(1534年)に檀家の人々が毎月費用を出しあい、大工加賀美五郎右衛門に依頼して厨子を造立した次第を記したもので、当時の人々の厨子建立に寄せる思いを伝えるとともに、戦国時代前半の歴史を知る上でも重要な史料といえる。
中世に遡る作例で尊像、厨子、銘文が揃って伝わる作例は県内では非常に稀であり、厨子銘文中に十日市場の村名がみえ、甲府盆地に春を呼ぶ祭りとして有名な「十日市(南アルプス市指定史跡)」の起源を考える上でも興味深い作例である。
木造十一面観音及毘沙門天、不動明王立像
木造十一面観音及毘沙門天、不動明王立像
(もくぞうじゅういちめんかんのんおよびびしゃもんてん、ふどうみょうおうりゅうぞう)
所在地/ 南アルプス市下今井841
所有者、管理者/ 隆円寺
指定年月日/ 平成20年4月17日
備考/
解説
もともと円通院にあり現在は隆円寺で管理している本像は江戸時代の地誌『甲斐国志』に「日不見観音(ひみずかんのん)」と記載されるように、三十三年に一度の開帳の秘仏として祀られてきた。史料がなく造立の次第などは不明だが、元禄4年には近隣の人々が施主となり大規模な修復が施されるなど、古くから人々の信仰を集めてきた尊像である。
中尊十一面観音像と毘沙門天像は、両肘より前及び天衣まで含んで一本の材から彫出し、内刳を施さない古式の構造で、平安時代前半11世紀頃の所産と考えられる。不動明王像は肩で矧ぐ構造がこれら二像と異なり衣文の表現などより簡略化され、二像よりやや遅れた12世紀前半頃の造立かと思われる。
観音像を中尊とし、不動明王像と毘沙門天像を脇侍とする形式は、10世紀末頃に比叡山延暦寺で成立し、以後天台宗の寺院で多く造立されるが、本像はこうした天台形式の三尊像として全国的に見ても早い時期の造立であり、この形式の地方への広がりを考える上で貴重な作例といえる。また、これまで甲斐国への天台宗の伝播を示す資料はすくなかったが、本像は平安時代中期における同宗の存在を確実に伝えており、天台宗伝播の最も古い遺例として甲斐の仏教史の上でも非常に重要な作例である。
木造阿弥陀如来坐像
木造阿弥陀如来坐像(もくぞうあみだにょらいざぞう)
所在地/ 南アルプス市下今井841
所有者、管理者/ 隆円寺
指定年月日/ 平成20年4月17日
備考/
解説
隆円寺所蔵本像は、全体のバランスが良くとれ、しかも引き締まった造形をみせる。像の表面が造立当時のまま伝えられていることも貴重で特に衣の全面には多種類の截金(きりかね)文様が残る。制作年代は鎌倉時代半ば頃と考えられ、端正で洗練された作風から作者は京の仏師と考えられる。また、本像頭部には、文書が2通納入され、うち1通が取り出されている。二紙からなるこの文書には仮名文字で浄土往生を願う願文が記され、本像が当時の浄土信仰のなかでの造立であることがわかる。像内に願文や納入品を奉納した阿弥陀如来像は県内では本像が初めての例であり、阿弥陀如来に寄せる当時の人々の篤い信仰を具体的に伝える貴重な作例といえる。
能蔵池の碑
能蔵池の碑
所在地/ 南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/ 野牛島区
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
能蔵池
野牛島地区の北西部に能蔵池がある。能蔵池は御勅使川の伏流水が崖下から湧きだした湧水池で、古くから周辺諸村の灌概用水として重宝されていた。この池のほとりに、碑は建てられている。
高さ189センチメートル、底辺幅98センチメートル、安山岩を用いた大きな石碑である。
安政4年(1857年)、ときの市川代官森田行が文章を考案し(撰文)、前任の代官荒井顕道が書をしたため(書)、徽典館(きてんかん)の学頭であった久貝岱(くがいたい)が「能蔵池の碑」という額の文字を書いて(篆額)、完成に至った。その内容を要約すると以下の通りである。

「野牛島に能蔵池という池がある。水は清らかで、どんなに乾燥しても枯れることはない。野牛島をはじめ高砂、榎原、徳永を灌漑してきた。池の中に天女、池の側に蔵王が祀られ、神竜のすむところである。
 村人たちもよく農事に励み、この水の如く怠ることがないようにしなさい、そうすれば倉はいつも満ち官も民も乏しいことがなく、不作の年も飢えをまぬがれるであろう。これは村人の幸福である。」
西の神地蔵
西(さい)の神地蔵
所在地/ 南アルプス市野牛島2616
所有者、管理者/ 野牛島区
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
野牛島集落の西はずれの小高い塚上に、「西の神地蔵」と呼ばれる板碑が南面して建てられている。高さ65センチメートル、幅27センチメートル、厚さ14センチメートルの安山岩製である。
頂部は三角形に造られ、その中央に阿弥陀如来を意味する梵字「キリーク」の文字が陰刻されている。頭部と下部を区画した3本の条線の下には、造立主旨が刻まれている。それによるとこの板碑は天文13年(1544)に、多くの信者が円明に入る(悟りに至る)ことを阿弥陀如来に祈願してたてられたものであるという。すなわち、「西の神地蔵」と呼ばれているこの板碑の本尊は、実は地蔵菩薩ではなく阿弥陀如来なのである。銘文下の方形の龕部(がんぶ)に陽刻された像は、顔の形や衣などがいかにも地蔵風であるが、それは阿弥陀如来に地蔵菩薩が集合したためである。
さらに、この板碑には「西の神」も習合されている。「西の神」とは、村へ入ろうとする悪霊を防ぐ「塞の神」のことであり、道辻に立つ道祖神がそれである。この板碑には庶民の生活に浸透していたさまざまな信仰が幾重にも重なり合っているのである。
なお、造立主旨には八田村の語源となった「八田庄」の文字が見える。「八田庄」は中世に八田から白根、櫛形まで広がっていた荘園といわれるが、それに関する史料は少なく不明な点が多い。その中で「西の神地蔵」は、「八田庄」を記す最も古い史料であり、歴史史料としての価値も高い。
石丸地蔵
石丸地蔵
所在地/ 南アルプス市榎原521
所有者、管理者/ 榎原区
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
ふれあい情報館を右手に見ながら南へ進み、指定文化財の標柱の角を曲がって細い農道を西に進むと果樹畑の中にひっそりと石丸地蔵が立っている。
高さ120センチメートル、幅37センチメートル、奥行27センチメートル、安山岩製の石仏である。頭部は剃髪を表す円頭で、耳朶が大きい。衲衣を着ており、背面には刻線で衲衣が表現されている。
左手に宝珠、右手には失われているが錫杖を持っていたと思われ、一般的な地蔵苔薩立像の姿を表している。
長年の風雨によって像全体が摩滅しているが、それがかえって柔和な表情を作り出し、親しみやすい雰囲気をかもし出している。
銘文は見られないが、形状から室町時代末期のものと推測される。
伝承によると、榎原に住む石丸一族の守護仏として信仰され、大正年間まで提灯を吊した祭りが行われていたとされる。
木造寄木地蔵菩薩立像一軀
木造寄木地蔵菩薩立像一軀 附厨子
所在地/ 南アルプス市十日市場1841
所有者、管理者/ 安養寺
指定年月日/ 昭和51年1月1日
備考/
解説
木造地蔵立像として、このような大形のものは県下に稀有のものである。伝承は空也上人作というが、藤原末期から鎌倉初期へかけての作風のようである。桧材、基盤は二段框座。安阿弥陀様式。尊像は全高123センチメートル。光背は後補のものである。現在塗金泥は一部をのぞいて消えうせ、右足部その他破損などみられるが、写実的で、民衆が商売繁昌、家内安全などの祈願をこめて、十日市の市神として、永い間、この仏の像をたのみにした息吹が強く感じられる。厨子は、後補のもので江戸時代作。大型、黒塗り、高さ234センチメートル。
木造釈迦如来坐像一軀
木造釈迦如来坐像一軀
所在地/ 南アルプス市鏡中条700
所有者、管理者/ 長遠寺
指定年月日/ 昭和58年1月1日
備考/
解説
この仏像は、客殿に安置してあって、寺記によると、24代日侑造立のもので享保年間(1716年から1735年)の作である。全体に江戸時代によくみられる卑俗性がなく、古い時代形式を求めんとした仏師の心境がうかがえる。西郡地方稀有の大金色坐像といえよう。像高 107センチメートル。八陵型須弥山形裳懸座からは171センチメートルある。面長22、面深23、肩張り56、膝高15。
木造日蓮上人坐像一軀
所在地/ 南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/ 妙連寺
指定年月日/ 平成元年1月19日
備考/
木造僧形八幡大菩薩像一軀
所在地/ 南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/ 妙連寺
指定年月日/ 平成元年1月19日
備考/
木造新功皇后坐像一軀
所在地/ 南アルプス市鏡中条747
所有者、管理者/ 妙連寺
指定年月日/ 平成元年1月19日
備考/
宝珠寺木造毘沙門天立像
宝珠寺木造毘沙門天立像
所在地/ 南アルプス市山寺950
所有者、管理者/ 宝珠寺
指定年月日/ 昭和51年3月2日
備考/
解説
身を甲冑にかため、右手に宝珠を捧げて鬼形上に立つ。内刳りのある寄木造で、肢体服装に強い動きを示す堂々たる作風である。「宝珠寺二尊縁起」にいう元禄年間の修理が巧みでないのが遺憾である。
本重寺板本尊
本重寺板本尊
所在地/ 南アルプス市上野347
所有者、管理者/ 本重寺
指定年月日/ 昭和52年11月22日
備考/
解説
縦78.3センチメートル、幅41.1センチメートルで用材は桂である。弘安5年(1282年)に日蓮が日興に与えたものと同じ様式で、正中2年(1325年)に秋山与一光定に日興が与えたものといわれている。
野中地蔵菩薩坐像
野中地蔵菩薩坐像
所在地/ 南アルプス市山寺92
所有者、管理者/
指定年月日/ 昭和52年11月22日
備考/
解説
山寺野中一族の仏神。内刳りのある寄木造で、胡粉地彩色、下地に紙を用いた室町時代の手法で造られ、永正十5年(1517年)開眼後再度補修彩色が施される。像高82センチメートル。胎内に梵字による光明真言等の墨書がある。
遠光・光朝の木造
遠光・光朝の木造
所在地/ 南アルプス市秋山567
所有者、管理者/ 秋山光朝公奉賛会
指定年月日/ 昭和42年10月1日
備考/
解説
加々美次郎遠光像は玉眼挿入、内ぐりのある寄木造。作者は無名でありながらも鎌倉期における肖像彫刻の逸品である。
 坐高 48センチメートル
 肩張 36センチメートル
 肘張 38センチメートル
 膝張 52センチメートル
 膝高 9.5センチメートル
秋山太郎光朝公座像は彫眼、寄木造で像に彩色が見られる。
台座には享保19年(1734年)の墨書きがあるので江戸時代中期の作であることがわかる。
伝曽我十郎木像・伝虎御前木像
伝曽我十郎木像・伝虎御前木像
所在地/ 南アルプス市芦安芦倉960-11142
所有者、管理者/ 諏訪神社
指定年月日/ 昭和59年11月26日
備考/

伝曽我十郎木像 高さ  57センチメートル
伝虎御前木像 高さ 48センチメートル
解説
以前は伊豆神社のご神体であったが、荒廃したので大正十年諏訪神社に遷祀された。これまで、曽我兄弟木造とされてきたが、平成十二年に行った鑑定結果と、合併前の芦安村文化財審議会及び諏訪神社の氏子により、この木造が曽我十郎と虎御前であるとの見解が出され、名称変更されることとなった。
曽我十郎と恋人同士であった芦安出身の虎御前を祀った木像であると思われる。
工芸品
鋳造の金灯籠
鋳造の金灯籠
所在地/ 南アルプス市野牛島2727 ふるさと文化伝承館内
所有者、管理者/ 南アルプス市
指定年月日/ 平成10年2月2日
備考/
解説
全長123センチメートル、鋳造で造られた鉄製の灯籠を笠には製作年代と思われる「天正15年(1587年)6月」の銘がある。隣に人名らしき文字も見られるが、判読できない。
鋳造の金灯籠は県下でも珍しく、中世のものは他に知られていない。
この灯籠はもともと酒造業を経営する六科区笹本米蔵氏の庭に置かれていた。笹本家は以前刀鍛冶を営んでいたと伝えられており、この金灯籠となんらかの関係があると思われる。
大日如来像
大日如来像
所在地/
所有者、管理者/ 諏訪神社
指定年月日/
備考/
高さ 65センチメートル
幅 10センチメートル
座高 9.5センチメートル
材質 銅製
解説
銅製の厨子の四隅には風鈴がついていて、その鈴の音は登山者の安全を守ってくれる尊い守り神である。かつては北岳山頂に石の祠がありそこに安置されていたという。
明治中頃までの登山者は拝していたようだが、その後、心無い人によって持ち去られ、人の手を渡り歩いていた。しかしこの大日如来を手にした人はよいことが起こらず、病人が絶えなかったので、諏訪神社に奉祀したものである。
宝筐印塔群
宝筐印塔群
所在地/ 南アルプス市鏡中条700
所有者、管理者/ 長遠寺
指定年月日/ 昭和58年1月1日
備考/
解説
恵光山長遠寺歴代墓域内にある五基を対象とする。北端の東塔は基礎から笠上端まで23センチメートル。正面には横に二祖、縦に日永と刻し、向って右に文和4年(1355年)、左に八月七日とある。西塔は、基礎から相輪まで31.5センチメートル。塔身の正面格狭間のなかに、中央に三世日用と縦刻、向かって右に応安二酉(1365年)左に七月五日とある。東塔年号は、県下在銘塔中屈指のもので、両塔とも北朝紀年号が刻されて、南北朝時代を偲ぶ歴史的価値がある。しかし塔全体が完備してなく、時代的にはおくれた感もある。
隆昌院本堂の桟唐戸
隆昌院本堂の桟唐戸
所在地/ 南アルプス市江原1550
所有者、管理者/ 隆昌院
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
桟唐戸は鎌倉時代に禅宗が渡来した折りにその建築様式とともに伝えられたもので、禅宗様扉とも呼ばれ、その後他宗の寺院や神社等でも広く用いられるようになった。隆昌院の桟唐戸は様式からして桃山時代(1574年から1614年)の頃に製作されたものと考えられる。高さ2.53メートルm、幅0.45メートル両折両開で黒漆仕上げ、上部の花狭間や八双金物に打ち抜かれた猪目形など美しく優れた作品である。
東南湖八幡宮の御輿
東南湖八幡宮の御輿と神鈴
所在地/ 南アルプス市東南湖3282
所有者、管理者/ 東南湖八幡社
指定年月日/ 昭和60年3月30日
備考/
解説
東南湖八幡宮の神鈴
東南湖の御輿は尺五御輿と言われて小型のものであるが、正格な江戸木割によって施工されている。文政八年(1825年)に修復が記されており、製作はそれ以前に遡り江戸中期頃と推定され、美術的にも大変すぐれた作品である。
神鈴は銅製で文禄三甲午年(1594年)の銘文を持つ桃山期の作品である。
西川家土蔵の戸前口
西川家土蔵の戸前口
所在地/ 南アルプス市大師65
所有者、管理者/
指定年月日/ 平成4年10月19日
備考/
解説
この土蔵は昭和63年に大改修がされているが、戸前口は江戸末期に造られたまま残されている。扉は通称観音開きと呼ばれる塗込扉であるが、これはそれ以前の軸摺形式である。耐火建築として土蔵造りは江戸時代に隆盛を極め、土蔵の戸前口は左官職人の腕の見せどころであった。
神部神社の算額
神部神社の算額
所在地/ 南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/ 神部神社
指定年月日/ 平成5年3月28日
備考/
解説
神部神社の算額2
わが国古来の数学である算額は江戸時代に関孝和らを中心に発達した。和算家が自分で発見した問題や解法を絵馬に書き寺社に奉納したものを「算額」と言った。
神部神社の算額は文化三年(1806年)に上州の和算家清水直次郎央七が奉納したものである。
 
書跡
紙本墨書長盛院の大般若経
紙本墨書長盛院の大般若経
所在地/ 南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/ 長盛院
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
時代 享保13年(1728年)4月17日から元文4年(1739年)5月17日
作者 嶽恩和尚・玄嶺和尚
長盛院境内の「経蔵」に嶽恩筆紙本墨書大般若経600巻が収められている。この般若経は亨保年間、長盛院の末寺、正重院の住職であった嶽恩和尚とその意志を継いだ本山玄嶺和尚によって写経されたものである。
嶽恩和尚は本寺の繁栄や天下の泰平、国土の安穏、子孫繁栄、村里の豊饒を祈願し、享保13年(1728年)4月17日、大般若経の筆写をはじめた。長年にわたる写経は心身をさいなむ辛苦を与え、時には天井から吊した縄で筆を持つ腕をささえていたといわれる。
500巻を書き終え、その完成を目前にしながら元文2年(1737年)2月9日、59才で他界した。本山玄嶺和尚はその志を継いで写経を進め、2年後の元文4年(1739年)5月17日、大般若経600巻の写経を完成させた。複数の僧侶によって書かれた大般若経は多数あるが、ほぼ1人の手によって書かれたものは県内でも類例が少ない。
歴史資料
神明神社正徳四年再興棟礼
神明神社正徳四年再興棟礼 1枚
所在地/ 南アルプス市上高砂958-1
所有者、管理者/ 神明神社
指定年月日/ 平成14年11月12日
備考/
総高 45センチメートル、下幅 30センチメートル
解説
棟札とは、建物を新築・再建した際に、施主や大工の名前、工事の日付、経緯などを記録するために作られ、天井の棟木などに打ち付けられる板札である。
神明神社の棟札には、正徳3年(1713年)8月に起こった洪水によって現在の神明神社から5丁(約545メートル)ほど東にあった本殿が流失し、正徳3年12月に現在地へ移転、正徳4年に棟札が奉納され、神社が再興された事績が記されている。
釜無川の河道変遷やそれに伴う上高砂集落の移転を考える上で、貴重な歴史資料である。
無形文化財
江戸小紋染師 内田一雄01
江戸小紋染師 内田一雄
所在地/ 南アルプス市
所有者、管理者/
指定年月日/ 平成4年3月21日
備考/
解説
江戸小紋染師 内田一雄02
下高砂地区で染色捺染業(型染)を営み、平成4年3月21日、旧八田村教育委員会より江戸小紋染師として無形文化財保持者に認定指定された。
内田氏は、父であり師でもあった内田秀一氏(山梨県指定無形文化財保持者)の後継者として引杢(ひきもく)等の染めの技術を継承し、日本の伝統工芸である江戸小紋型染に専念従事するようになる。
小紋とは型紙などを用いて染め出したがらの細かな模様、そしてその模様が染め上げられた着物を意味する。江戸時代、武士の礼装である裃(かみしも)に小紋が用いられ、各藩が独自の小紋を競い合うことで、技術的に大きな発展を遂げた。
昭和29年、こうした柄の細かな小紋を他の小紋と区別するため、江戸時代の代表的な染めであることから「江戸小紋」という名称がつけられた。
江戸小紋は、縮緬(ちりめん)を代表する絹地織物に繊細な柄模様を単調な色彩で染め抜く伝統技術である。江戸小紋の特徴はこの柄の細繊さにあり、遠くで見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が現れるのが上品あるいは「粋」とされた。
染めに使われる型紙は「伊勢型紙」といわれ、現在の三重県鈴鹿市白子で製作されてきた。型彫りには「引き彫り」、「錐彫り」、「突き彫り」、「道具彫り」等の高度な技術が必要であり、染め師と同様に無形文化財に指定されている彫り師もいる。
無形民俗文化財
巨摩八幡宮太太神楽
巨摩八幡宮太太神楽
所在地/ 南アルプス市鏡中条469
所有者、管理者/ 巨摩八幡宮
指定年月日/ 昭和46年1月28日
備考/
解説
この神楽は里神楽であって笛や太鼓で囃し、仮面を被り無言で演ずる岩戸神楽に属するものである。その起源は詳らかではないが往古よりこの里の伝承され、ある時には高尾山穂見神社の氏子により、また山寺八幡神社の氏子により奉納されてきた。現在は氏子有志(奉楽会)に引き継がれ、毎年大晦日から元旦にかけてと、8月最終日曜日に奉納されている。
甲州囃子
十五所の甲州囃子
所在地/ 南アルプス市十五所
所有者、管理者/ 十五所甲州囃子保存会
指定年月日/ 昭和56年4月1日
備考/
解説
十五所区に伝わり別に長男囃子とも呼ばれ、200年程前に村人が京都の祇園囃子に感じ入って作り出したものである。五つの囃子で構成され、大太鼓・小太鼓・笛などの楽器が用いられ踊りも入る。
山寺八幡神社太太神楽
山寺八幡神社太太神楽
所在地/ 南アルプス市山寺
所有者、管理者/ 山寺八幡神社神楽部
指定年月日/ 昭和61年9月1日
備考/
解説
氏子による神楽部によって、例祭4月29日、12月31日(午後11時30分から午前1時30分)頃に奉納される。20数種の舞に応じて面・冠・衣装があり、刀・扇子などの採り物がある。
高尾穂見神社太太神楽
高尾穂見神社太太神楽
所在地/ 南アルプス市高尾485
所有者、管理者/ 穂見神社神楽会
指定年月日/ 昭和61年9月1日
備考/
解説
氏子による神楽師によって、例祭(11月22日)夜に奉納され夜神楽として有名である。20数種の舞に応じて面・冠・衣装・採り物などがあり、面は24面が保管されている。横笛・鈴などの楽器を用いる。
曲輪田峰村小路の獅子舞
曲輪田峰村小路の獅子舞
所在地/ 南アルプス市曲輪田峰村小路
所有者、管理者/ 曲輪田峰村小路獅子舞保存会
指定年月日/ 平成3年12月25日
備考/
解説
起源は天明年間といわれ、家庭の和と社会平和の護り神として毎年正月14日、15日の道祖神祭の日に舞が行われる。また、娯楽の一つとして道化万才等の余興も演じられる。
若宮八幡宮の神楽
若宮八幡の神楽
所在地/ 南アルプス市古市場238
所有者、管理者/ 古市場敬神会
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
若宮八幡神社は古市場など周辺の七か村の総鎮守とされている。
文久2年(1862年)に水害を防ぐために神楽を奉納したのが始まりと伝えられており、古来「八朔」といって旧暦の8月1日に祭典が行われた。大正元年に古市場敬神会が発足し大祭を継承している。西郡地域の夜祭として境内は夜を徹して参詣者で賑わいを見せる。毎年、10月第1土、日曜日に奉納される。
西南湖の獅子舞
西南湖の獅子舞
所在地/ 南アルプス市西南湖4229
所有者、管理者/ 西南湖獅子舞保存会
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
1月14日から16日にかけての小正月には道祖神を奉る多くの民俗行事が行われる。この西南湖の獅子舞は現在でも西南湖獅子舞保存会により区内の新築祝い、結婚などの祝い行事として舞われる。明治20年(1887年)頃、隣の和泉地区の青年が質入れした衣装一式をもらい受け始められたという。
近松門左衛門作「梅川忠兵衛」、紀海作「八百屋お七」などさまざまな浄瑠璃を日本舞踊ふうに舞うことが非常に独特の舞いを見せている。
神部神社曳舟神事01
神部神社曳舟神事
所在地/ 南アルプス市下宮地563
所有者、管理者/ 神部神社
指定年月日/ 平成6年6月28日
備考/
解説
神部神社は大物主命を祭神とし、「延喜式神名帳」に記載された巨摩郡五座のなかのひとつである。
毎年3月第1日曜日に(往古は2月2日)に行われる曳舟祭は、大和国からご神体を奉遷した古事にならってその様子を再現している。神主が数本の矢を放ち悪魔を祓い、諸々の贖罪、五穀豊穣、天下奉平を祈願する。神事において、木舟を神主、氏子らが引くというのは、恐らく当時の運搬手段のひとつとして、木舟を用いて内陸まで出入りしていた様子を演出しているものと考えられ、当時の交通運搬や文化流入を知るうえで貴重である。古代における神の遷座の状況を神事として残す祭祀は類例を見ない。
史跡
ロタコ(御勅使河原飛行場)跡3号掩体壕
ロタコ(御勅使河原飛行場)跡3号掩体壕
ろたこ(みだいがわらひこうじょう)あとさんごうえんたいごう
所在地/ 南アルプス市飯野4182-2
所有者、管理者/ 南アルプス市
指定年月日/ 平成20年4月17日
解説
戦争遺跡ロタコは、アジア太平洋戦争末期に御勅使川扇状地上に構築された日本陸軍の秘匿飛行場である。ロタコの遺構は3キロメートル四方、約800ヘクタールの範囲に点在する。建設工事には釜無川西岸域の住民が1日あたり3000人余り動員されたほか、朝鮮半島出身の労働者や当時の小中学生なども動員されている。
ロタコについては、上記のとおりこれまで市教育委員会などによって、分布調査、聴き取り調査、発掘調査などが継続的に実施されてきており、遺跡としての価値付けが高められてきている。戦争に対する人々の記憶が薄れる中、ロタコは、地域住民の過去のある時期に関する「共同の記憶」を象徴するものという意味で大変貴重と考えられる。
指定された、南アルプス市有地に所在する掩体壕は、ロタコを象徴する遺構のひとつであり、発掘調査の結果良好な遺構の遺存状態が確認されている。
なお、指定名称については、これまでの研究史および今後の指定の方向性に鑑み、「ロタコ(御勅使河原飛行場)跡3号掩体壕」こととした。
土屋惣蔵昌恒の墓
土屋惣蔵昌恒の墓
所在地/ 南アルプス市徳永1678
所有者、管理者/ 長盛院
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
土屋惣蔵は武田家の重臣金丸氏の4代目金丸筑前守虎義の5男に生まれる。15歳の時、駿河の武将土屋備前守の養子となり、土屋惣蔵昌恒と名を改めた。元亀3年(1572年)、武田が徳川と戦った、三方ヶ原の戦いで戦功をあげた惣蔵は、武田信玄亡き後、家督を継いだ勝頼の側近となった。
勝頼は美濃、遠江、三河へと破竹の勢いで進出していったが、長篠の戦い天正3年(1575年)で織田・徳川連合軍に破れ、これが武田家の衰運を決定づけることになった。惣蔵はこの戦いで武田24将にも数えられた兄土屋右衛門尉昌続と、養父貞綱を失い、急遽、甲府に帰還して家禄を相続している。敷島町島上条大庭にあったと伝えられる昌続の居館も受け継ぎ、以後そこを自身の館として勝頼に仕えた。勝頼は新府城を築城して武田陣容の立て直しに努めるが、時勢にのった織田・徳川軍は甲斐国に侵攻し、武田家の家臣たちを次々に離反、投降させていった。
天正10年(1582年)3月11日、勝頼一行はとうとう大和村田野の集落に追いつめられた。このとき惣蔵は狭い崖の道筋に立ち、左手に弦、右手に刀を持って敵軍の前に立ちはだかった。最期を悟った勝頼が自害する時間を作ったのである。崖下の川は惣蔵に切られた武士たちの血で3日間も朱に染まり、三日血川(みっかちがわ)と呼ばれた。この片手千人斬りの伝説を打ち立てた惣蔵も、勝頼の後を追って悲運の最期を遂げた。多くの家臣が叛いていく中、最後まで勝頼に付き従い、主君を守り抜いた姿は、武田家最後の忠臣として後世に話り継がれている。なお、惣蔵の生家の金丸家は、2代伊賀守光信が現在長盛院がある崖上の地に館を築き、代々徳永を中心とした地域を治めた。
五百住巨川の墓
五百住巨川の墓(いほずみきょせんのはか)
所在地/ 南アルプス市上高砂986
所有者、管理者/ 豊光院
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
上高砂地区、豊光院本堂裏手の墓地に国学者、五百住巨川の墓がある。
 五百住巨川は、文政12年(1829年)に江戸藩邸で五百住元卓の次男として生まれた。幼名を栄三郎または丑松といい成長した後巨川と号した。昌平坂学問所で学び、著名な国学者であった平田篤胤に師事して国学を修めた。
巨川は地方の名士と国事を論じるために諸国を巡歴し、安政4年(1857年)に巨麻郡西郡を訪れた。その際、有野村に住む名取理平に引き留められ、上高砂の地に私塾「螺廼舎(しのしゃ)」を開き、算術や漢字、書道などを教えた。塾舎は、明治5年(1872)まで現上高砂バス停留所の隣にあり、最盛期には教師5名、塾生138名を数えた。巨川の影響を強く受けた塾生も多く、彼らは明治維新後の地域名士として、郷土の発展に尽力した。
明治4年、巨川は本県最初の新聞である「峡中新聞」の主筆となる。明治7年には藤村県令の命を受け、県神社局長となり寺社の整理統一に手腕を奮うが、明治8年3月7日47歳で夭逝した。
著書には「なまよみの甲斐」2巻、「私輯大日本史系図」、「大日本史解説」など地方に根差した視点から日本を俯瞰した多数の大著がある。
鎌倉御所五郎丸の墓
鎌倉御所五郎丸の墓
所在地/ 南アルプス市野牛島2076
所有者、管理者/ 野牛島区
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
野牛島集落の中心に、御所五郎丸の墓がある。安山岩の墓石に「鎌倉御所五郎丸の墓」と陰刻されている。墓所の前には観音堂が建っており、御所五郎丸の肌守りと言い伝えられる観音菩薩座像(実際は地蔵菩薩座像)が祀られている。
御所五郎丸は歌舞伎や能楽の演目『曾我物語』で有名な、曾我兄弟の仇討ち事件に関わった武士である。建久4年(1193年)、源頼朝の富士の巻狩りの折り、曾我兄弟は父親の敵工藤祐経を討ち果たし、18年にも及ぶ本懐を遂げた。兄十郎は駆けつけた祐経の部下に討たれるが、弟五郎はことの次第を報告すべく、頼朝の御前を目指して敵陣の中を突き進んでいった。怪力自慢であったという五郎に向かっていった武士たちはことごとくなぎ倒されていったが、ただひとりその身を取り押さえることができたのが御所五郎丸であった。『曾我物語』には、五郎丸が女装して曾我五郎を油断させたと書かれている。この奇計が武士道に反するとして、五郎丸は功をあげたにもかかわらず、鎌倉を追放され、野牛島の地に流されたと伝えられている。しかし、鎌倉時代の歴史書『吾妻鏡』や初期の『曾我物語」には女装の事実は書かれておらず、後世の脚色である可能性が高い。
五郎丸についての記録は、鎌倉時代には他になく、その人物像は不明な点が多い。江戸時代に書かれた『扁額規範』(へんがくきはん)によれば、五郎丸は京都に生まれ、比叡山に住んでいたが、16歳の時に師匠の仇を討って都を離れ、一条忠頼を頼って甲斐国甘利庄(現在の韮崎市)に来た。その後、忠頼が頼朝に討たれたのを機に、頼朝に仕えるようになった。荒馬を乗りこなす剛の者で、75人力であったという。毎年8月末には、地元の人々によって五郎丸の慰霊祭が行われている。
松声堂跡(しょうせいどうあと)
松声堂跡(しょうせいどうあと)
所在地/ 南アルプス市西野2783
所有者、管理者/ 南アルプス市
指定年月日/ 昭和53年2月16日
備考/
解説
松声堂は、江戸時代に創立された西郡地域の勉学の中心となったところである。天保6年(1835年)西野村長百姓幸蔵ら12名は、“勉学によって人倫の道を教え、農民としての自覚を高めたい”として幕府に手習所の創設を出願した。
翌7年に許可され、初代教師に江戸下谷生れの松井喚斉を迎え、西野北村現在の宝珠院で開校した。
天保9年(1838年)には旧西野小学校の地に移り、明治4年(1871年)西野郷学校となるまでの36年間、この地方の庶民教育に果した功績は非常に大きいものがあった。松声堂跡には松井喚斉の碑、松声堂碑などが建立されている。
須沢城跡
須沢城跡(すさわじょうあと)
所在地/ 南アルプス市大嵐
所有者、管理者/ 西区
指定年月日/ 昭和55年9月24日
備考/
解説
御勅使川扇状地を見渡せる高台にある山城の跡。城跡らしいものは残っていないが、城の本丸に当たるところに室町初期のものとみられる宝篋印塔(ほうきょういんとう)、五輪塔が数基建てられている。
城主は、当時西郡地方を支配していたと思われる逸見(へんみ)孫六(まごろく)入道(にゅうどう)と言われている。
正平5年(1350年)12月鎌倉で失脚した高師冬(こうのもろふゆ)がこの城を頼って落ちのび、翌年正月、上杉能憲及び諏訪の祝部(ほうりべ)の連合軍に攻められ落城した。(桜雲記による)
白山神社
所在地/ 南アルプス市築山33
所有者、管理者/ 白山神社
指定年月日/ 平成15年2月14日
備考/
解説
白根町築山に鎮座する神社で、旧社格は村社、祭神は菊理媛神。境内地は150坪と規模は小さいが、一通りの施設が備わっている。
本殿は1間社流造りで、床下に浜床(はまゆか)階段上に母屋床(もやゆか)が張ってある。拝殿は寄棟造り(よせむねづくり)で囲いの壁がなく、吹き抜けになっている。随身門は入母屋造り、鳥居は柱頭に台輪がある稲荷鳥居で、額束(がくづか)に権現社と名記され、元禄11年寅4月1日の年号がある。神燈は鳥居の前にあり、元禄11年寅4月1日の年号がある。境内社として2基の祠があり、1基に寛政5丑巳12月吉日の銘がある。
加賀美遠光館跡
所在地/ 南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/ 法善寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日
備考/
解説
鎌倉期から南北朝期にみられる荘園。鎌倉期は青蓮院門跡領で、年貢は米でなく布だったという。南北朝期には勧修寺領に移っているが経緯は不明。加賀美氏は甲斐源氏の一族で、遠光は1143年(康治2年)、若神子(須玉町)逸見の館に生まれ、この地に居館、峡西地方、鰍沢、塩山を治め強大な勢力を誇る。法善寺は遠光の館跡に孫の遠経が建立したと伝えられる。
十日市跡
所在地/
所有者、管理者/ 加賀美・法善寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日
備考/
五味国鼎の墓
所在地/
所有者、管理者/ 藤田・泉能寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日
備考/
広瀬中庵の墓
所在地/ 南アルプス市藤田304
所有者、管理者/ 明行寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日
備考/
五味可都里の墓跡01
五味可都里の墓跡
所在地/ 南アルプス市藤田410
所有者、管理者/ 泉能寺
指定年月日/ 昭和46年1月28日
【参考文献】
池原錬昌編2004『可都里と蟹守』五味企画
清水茂男1963「五味可都里の研究」『山梨大学学芸学部研究報告』14号山梨日日新聞社出版部編2003『可都里と霞外』若草町文化協会
解説
五味可都里の墓跡02
五味可都里は江戸時代後期、甲州を代表するの俳人ひとり。
名は宗蔵、号は可都里(葛里)。蕪庵(かぶらあん)と称した。
旧巨摩郡藤田村(現南アルプス市藤田)の豪農で、田園風景を素材にした温雅な作品を多く残した。
編著に『農おとこ』、『ななしどり』などがある。
寛保3年(1743)生まれ、文化14年(1817)没。享年75歳。
可都里の没後、「蕪庵」は甥の蟹守が継ぎ、その後の甲州俳壇の指導的役割を担った。
※なお、現在墓自体は鏡中条の長遠寺境内に移されている。
椿城跡
椿城跡
所在地/ 南アルプス市上野
所有者、管理者/ 上野区
指定年月日/ 昭和56年4月1日
備考/
解説
鎌倉時代に小笠原長清の孫、上野盛長の築いた城で上野城と呼んだが付近に山茶が多く、椿城とも呼ばれた。以後秋山氏が拠り、室町時代には武田大井氏の信達が居城とし、武田信虎との交戦や、大井夫人の出生等の故事で有名である。
小笠原長清公館跡01
小笠原長清公館跡
所在地/ 南アルプス市小笠原
所有者、管理者/
指定年月日/ 昭和62年7月1日
備考/
解説
小笠原長清公館跡02
小笠原小学校付近の小字を「御所庭」という。甲斐国志には「御所ノ庭 村ノ西ニ在リ松樹鬱蒼方四十間許リノ間地ナリ相伝フ小笠原長清居宅ノ南庭ニニシテ(略)」と記している。
 
六科丘古墳
六科丘古墳
所在地/ 南アルプス市あやめが丘1930-7他
所有者、管理者/ 南アルプス市
指定年月日/ 昭和61年9月1日
備考/
解説
古墳時代前半(5世紀中頃)の造出し付円墳で、径28メートルである。埋葬主体は発見されなかったが、鉄剣・管玉・須恵器などが得られている。峡西地域では物見塚古墳に次いで古いものである。
奈胡十郎義行の墓
奈胡十郎義行の墓
所在地/ 南アルプス市東南湖110
所有者、管理者/ 東南湖区
指定年月日/ 昭和42年10月1日
備考/
解説
甲斐源氏清光の十男として生まれ、奈胡庄を領したので奈胡十郎義行と言った。
また義行は八条院蔵人であったので奈胡蔵人とも言う。平家追討に際し源氏の将として功績を挙げる。建仁3年(1203年)6月に没しており東南湖のこの地に義行の墓所、あるいは義行の神木があったと伝えられる。
遠光・光朝及び夫人の墓
遠光・光朝及び夫人の墓
所在地/ 南アルプス市
所有者、管理者/ 秋山光朝公奉賛会
指定年月日/ 昭和42年10月1日
備考/
解説
三基とも安山岩で造られているが、それぞれが誰の墓なのかは不明である。両端は同型で東側地輪左側面に貞治四年(1365年)閏9月16日の刻銘があり、室町時代の造営であることが判明した。中央の塔はさらに古く鎌倉時代初期のものと考えられる。従って中央が遠光、東側が光朝、西側が光朝の夫人であると推測される。秋山光朝は文治元年(1185年)秋、鎌倉勢に攻められ、雨鳴城において夫人とともに自害した悲運の武将である。
秋山光朝館跡
所在地/ 南アルプス市秋山603
所有者、管理者/ 秋山光朝公奉賛会
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
熊野神社は秋山太郎光朝の館跡であったと伝えられている。熊野神社周辺には光昌寺や光朝の要害城であった雨鳴城とともにその遺徳を偲ぶ史跡が数多く所在している。またこの地より円筒埴輪の一部が発見され古墳であったとも言われている。
辻嵐外の墓
辻嵐外の墓
所在地/ 南アルプス市落合150
所有者、管理者/ 成妙寺
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
成妙寺の山門をくぐると「笹の葉や今に鶯年よらず」と詠われた句碑がある。
辻嵐外は江戸後期の俳人である。嵐外は明和8年(1771年)敦賀に生まれ、年に甲斐を訪れ若草町藤田の五味可都里を頼り、その後75歳まで落合を中心に甲斐の俳諧文化の向上に努めた。嵐外は俳諧結社安楽林社との交友が深く、弘化2年(1845年)11月26日成妙寺に「嵐外日哉の墓」を建立した。
塚原上村古墳
塚原上村古墳
所在地/ 南アルプス市塚原272
所有者、管理者/ 矢崎陽
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
塚原地区は古来より塚の原っぱといわれるほど塚が存在したという。この古墳は古墳時代後期に築造された横穴式石室である。櫛形の古墳、物見塚古墳とともに甲府盆地西部の歴史の生い立ちを知る上で貴重な資料である。通称大西のおかまと呼ばれている。
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名勝
懸腰山
懸腰山
所在地/ 南アルプス市湯沢1345
所有者、管理者/ 本清寺
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
懸腰山は文永11年(1274年)日蓮上人が甲斐国内を巡しゃくされこの地を通りかかった折に松に袈裟を懸け、腰を下ろして休まれた霊場として懸腰山と命名したという。眼下に広がる甲府盆地の眺望が素晴らしい。
天然記念物
能蔵のエドヒガンザクラ
能蔵のエドヒガンザクラ
所在地/ 南アルプス市野牛島2704
所有者、管理者/ 野牛島区
指定年月日/ 昭和51年3月1日
備考/
解説
本樹は能蔵池の北西隅にある。江戸彼岸桜という名称は、「東国(関東)の彼岸桜」という意味で、ゆえに「東(あづま)彼岸桜」ともいう。
根回り4.5メートル、目通り1m、樹高8メートルの大樹である。樹勢は旺盛で、毎年4月上旬に薄紅色の美しい花を咲かせる。
白根のゴヨウマツ
所在地/ 南アルプス市西野1498
所有者、管理者/
指定年月日/ 昭和63年7月20日
備考/
解説
西野北村小路の小野氏宅の前庭に育つ五葉松。松の種類のうち、五枚の葉を持つ種類を五葉松と称し、これはその中のヒメコマツと言う種類の樹木である。
 規模は、目通り幹囲1.30メートル、根回り2.95メートル、東へ伸びる枝の長さ15メートル、樹高8.5メートル。手を尽くされ、極めて美しい庭木となっている。
水宮神社の社叢
水宮神社の社叢(みずみやじんじゃのしゃそう)
所在地/ 南アルプス市有野1298
所有者、管理者/水宮神社
指定年月日/ 昭和61年9月12日
備考/
解説
水宮神社は有野部落の北部、御勅使川近く鎮座し、水波能女命(みずはのめのみこと)を祭神とする水害防護の神社である。御勅使川は大扇状地をつくっただけに、有史以来も大氾濫をくりかえし、特に天長11年(834年)の洪水は大惨事をもたらし、救恤のため勅使が派遣された。時の国司藤原貞雄は治水に努力し、当社に配祀されている。江戸時代、有野ほか21ケ村の鎮守として、御勅使川の共同水防が行われてきた。また、当社の森社叢は、マツが主要樹木だが、その他にアサダ2本、クマシデ3本、モミ10本、ケヤキ1本で構成されたいます。この中のアサダはクマシデ科の落葉高木で、本県では珍しい樹種で貴重な存在です。
沓沢 山の神 大栂
沓沢 山の神 大栂
所在地/ 南アルプス市芦安芦倉1290-1
所有者、管理者/ 南アルプス市
指定年月日/ 昭和59年11月26日
備考/
樹高 27.68メートル、目通り 3.8メートル、根周り 5メートル、枝張り 東西20メートル、南北24メートル、根の露出部分 東西20メートル、南北24メートル
解説
沓沢の山の神の大栂はいつから生育したのかわからないが、かつては千年栂とも呼ばれていた。この大栂の根本に昔から祀られている山の神が四祀ある。この山の神の大栂は、昭和59年に村の天然記念物に指定された。
岩盤の上ともいえる痩せた尾根に、何百年も生育して今でも樹勢が衰えず繁茂している姿には、崇敬の念が感じられる。
法善寺のサルスベリ一樹
法善寺のサルスベリ一樹
所在地/ 南アルプス市加賀美3509
所有者、管理者/ 法善寺
指定年月日/ 昭和62年7月1日
備考/
解説
みそはぎ科の落葉高木で原産地は中国南部。樹皮は褐色でつやがあり、なめらか。夏から秋にかけて白色または紅色の小花をひらく。
さるもすべりそうだという意から「サルスベリ」と云われ、花期の長いことから「百日紅」とも云う。
樹高15メートル、根廻り2.8メートル、枝張り東西13.5メートル、南北10メートル。
樹齢は定ではないが、サルスベリとしては県下で数少ない大木である。
上市之瀬のイトザクラ
上市之瀬のイトザクラ
所在地/ 南アルプス市上市之瀬1436
所有者、管理者/ 上市之瀬イトザクラ保存会
指定年月日/昭和51年3月2日
備考/
解説
一名シダレザクラともいう。根元の周囲4.4メートル、目通り幹囲3.6メートル、樹高10メートル。枝張りは四方に広がり、特に枝垂れは長く、花色は濃い方で、樹齢約200年。
山寺八幡神社のシラカシ林
山寺八幡神社のシラカシ林
所在地/ 南アルプス市下宮地470
所有者、管理者/ 山寺八幡神社
指定年月日/ 昭和54年2月15日
備考/
解説
神社南西部を中心にして、シラカシの群生がみられる。目通り幹囲3.4メートル、樹高23メートルを筆頭に35本が群生している。暖地性植物カシ林は、盆地周辺が北限で植物分類地理学上貴重である。
宗林寺のイロハモミジ
宗林寺のイロハモミジ
所在地/ 南アルプス市下市之瀬240
所有者、管理者/ 宗林寺
指定年月日/昭和62年12月1日
備考/
解説
樹齢300年余。根元の周囲4.9メートル、目通り幹囲2.6メートル、樹高約12メートル。枝張りもよく東西は12メートル以上、秋の紅葉は見事である。
平岡のヤシャブシ
平岡のヤシャブシ
所在地/ 南アルプス市平岡2910
所有者、管理者/ 平岡区
指定年月日/ 昭和61年9月1日
備考/
解説
標高610メートルの山上に、御神木として保存されている。球果にタンニンを多く含み、この地域では五倍子(フシ)の木と呼ぶ。目通り幹囲3.1メートル、樹高15メートル。枝張りは四方に8メートルあまりの県下まれな巨樹。
諏訪神社のエドヒガン
諏訪神社のエドヒガン
所在地/ 南アルプス市曲輪田1077-2
所有者、管理者/ 曲輪田諏訪神社
指定年月日/ 昭和62年12月1日
備考/
解説
神社西方の境内樹。地域ではヒガンザクラで通っている。東のモミジと共に農作業の目安として親しまれ、早春の開花は、淡紅色で見事。目通り幹囲2.8メートル、樹高15メートル、枝張りは東西16メートルに及ぶ。
高尾穂見神社の大スギ
高尾穂見神社の大スギ
所在地/ 南アルプス市高尾485
所有者、管理者/ 穂見神社
指定年月日/ 平成5年11月25日
備考/
解説
社殿前の東に位置する境内一の巨樹で御神木とされてきた。目通り幹囲5.75メートル、根廻6.80メートル、樹高45メートル、枝張り東西25メートル南北20メートル。樹型は直幹、枝張り方錐形の美形である。
清水八幡の夫婦ケヤキ
清水八幡の夫婦ケヤキ
所在地/ 南アルプス市清水92
所有者、管理者/ 清水区
指定年月日/ 昭和42年10月1日
備考/
解説
清水八幡神社境内に東西に自生する老木である。西側が夫で、かつては樹高27メートル、根回り20メートル、目通り7.4メートルを誇ったが、近年、強風により根の部分を残し倒壊してしまった。樹齢は約650年である。
東側が婦で樹高25メートル、根回り12.1メートル、目通り4.4メートル、樹齢が約450年である。境内に仲良く並んで自生しているため「夫婦ケヤキ」と呼ばれ地域に親しまれている。
秋山の多羅葉樹
秋山の多羅葉樹
所在地/ 南アルプス市秋山596
所有者、管理者/ 個人
指定年月日/ 昭和42年10月1日
備考/
解説
根回り2.6メートル、樹高14メートルで時の光昌寺住職がシャム国(タイ)よりこの地に持ち帰ったと言われている。現在秋山富士夫氏の庭園に自生しており雌樹で赤い実をつける。
広誓院のカヤの木
広誓院のカヤの木
所在地/ 南アルプス市湯沢1826
所有者、管理者/ 広誓院
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
湯沢の平野山広誓院は文亀元年(1501年)6月に創建されたと伝えられている。
このカヤの木は根回り13メートル、目通り4.5メートル、樹高は12メートル、樹齢約500年の老木である。
安藤家の避雷針の松
安藤家の避雷針の松
所在地/ 南アルプス市西南湖4302
所有者、管理者/ 山梨県
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
根回り20メートル、目通り3.5メートル、樹高19メートル、樹齢500年
この松は江戸時代前期頃滝沢川左岸の岸辺に自生しており、当時水害の常襲地帯であった滝沢川より村人たちが安藤家に移植したという。
この松には明治末期頃つけられた避雷針が取り付けられており、別名「避雷針の松」と呼ばれクロマツとしては希な巨木である。
不動寺の菩提樹
不動寺の菩提樹
所在地/ 南アルプス市古市場180
所有者、管理者/ 不動寺
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
古市場の不動寺は弘仁年間(810年から823年)に創建された真言宗の寺院である。
その山門の西側にひっそりと自生しており、根回り1.5メートル、目通り1.2メートル樹高6メートルである。「菩提樹」は中国原産の植物で福岡県に渡り次第に全国に広がったという。
法音寺の多羅葉樹
法音寺の多羅葉樹
所在地/ 南アルプス市江原1587
所有者、管理者/ 法音寺
指定年月日/ 昭和44年11月13日
備考/
解説
本樹は雄樹で根回り2.6メートル、樹高14メートル、地上2メートルで二幹に分かれている。葉の縁に鋭い鋸歯があることから「鋸柴」とも言う。モチノキ科に属し樹皮からとりもちを作る。
成妙寺の松
成妙寺の松
所在地/ 南アルプス市落合150
所有者、管理者/ 成妙寺
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
宗持山成妙寺に自生する松は垂れクロマツの傾向を持ち、根回り3.6メートル、目通り2.9メートル、樹高17メートル、樹齢約200年で地上約1メートルのところで東西2幹に分岐している。
鮎沢の御崎ビャクシン
鮎沢の御崎ビャクシン
所在地/ 南アルプス市鮎沢754
所有者、管理者/ 鮎沢区1組
指定年月日/ 昭和49年1月29日
備考/
解説
鮎沢の御崎稲荷明神にある当木は根回り2.9メートル、目通り2.3メートル、樹高やく7メートル、樹齢約400年と言われている。この御崎ビャクシンは毎年鮎沢1組で祭典を行っている。
本清寺のカヤの木
本清寺のカヤの木
所在地/ 南アルプス市湯沢913
所有者、管理者/ 本清寺
指定年月日/ 昭和44年1月13日
備考/
解説
本清寺は正保元年(1644年)9月13日に創建されている。
 根回り6メートル 目通り3.9メートル 樹高20メートル
 カヤの木は音の反響が優れているので、昔から基盤や将棋盤に用いられている。
 また木の実は薬用や菓子などに用いられ「カヤアメ」などはよく知られている。
隆昌院の多羅葉樹
隆昌院の多羅葉樹
所在地/ 南アルプス市江原1550
所有者、管理者/ 隆昌院
指定年月日/ 平成元年2月27日
備考/
解説
多羅葉は葉に傷を付けると浮かび上がるので古代インドでは木針で葉に傷を付け経文を写したことからそれにたとえて多羅葉と称している。また、葉に火をつけると黒い環が現れるので紋付柴ともいわれている。
根回り2.36メートル、目通り1.41メートル、樹高12メートルである。

お問い合わせ先

文化財課
山梨県南アルプス市鮎沢1212(甲西支所内)
南アルプス市教育委員会
電話番号 055-282-7269
FAX番号 055-282-6427
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